第4話

まぶたの裏で、私は必死に記憶を再生していた。


ふわふわの毛並み。ゴロゴロという喉の振動。私の頬をくすぐる温かい息。そして、世界中の安心を全部集めて固めたみたいな、お日様の匂い。


(大丈夫。思い出せる。あの時の、あの感覚……)


馨先輩の言う通り、嬉しいとか、楽しいとか、そういう言葉になる前の、もっとずっと原始的で、純粋な感覚。それを、心の真ん中に、そっと置く。


すると、私の周りの空気が、ふわりと変わったのが分かった。目をつぶっていても分かる。さっきまでの、私の不安や緊張が作り出すジメジメした匂いが薄れて、代わりに、温かくて、少しだけ甘い香りが立ち上り始めたのだ。


「……そうだ。その感覚を保て」


馨先輩の静かな声が、私の集中力をさらに高めてくれる。


「今から、君のその『心の香り』を核にして、香水を錬成していく。俺が指示する素材を、一つずつ加えていくんだ」


カチャリ、とガラス器具の触れ合う音がする。先輩が、錬成の準備を始めたみたいだ。


「まず、トップノート。揮発性が高く、最初に香り立つ部分だ。君の記憶にある、陽だまりの『キラキラした光』の感覚を、ここに」


そう言って、先輩は私の右手をそっと取った。


どきっ!


突然のことに、心臓が大きく跳ね上がる。指先に触れた先輩の肌は、少しひんやりとしていて、でも、骨張っていて、すごく男の子の手だった。


(う、わ……っ!?)


せっかく集中していたのに、一瞬で意識が先輩の指先に持っていかれてしまう。まずい。これじゃあ、また変な匂いが……!


案の定、ふわりと漂い始めた温かい香りが、一瞬、焦げ付いたように揺らいだ。


「……集中しろ」


耳元で、低く囁かれる。


「雑念は捨てろと言ったはずだ。今は、俺の手の感触じゃない。陽だまりの光だけを考えるんだ」


「は、はい……っ!」


分かってる。分かってるけど、無理だ。こんなに近くで声をかけられたら、意識しない方がおかしい。


顔が、かあっと熱くなるのが分かる。心臓が、うるさくてたまらない。


(って、なんで私が彼のことでこんなに一喜一憂してるの――っ!?)


「……仕方ないな」


先輩の、呆れたようなため息が聞こえた。


次の瞬間、私の手に、小さなガラス瓶が握らされた。中には、黄金色の液体が入っている。


「これはベルガモットの精油だ。柑橘系の、弾けるような光の香り。君の記憶にある陽光のイメージに一番近い。これを、ビーカーに三滴だけ落とせ」


「は、はい!」


私は目を開けて、言われた通りにスポイトで黄金色の液体を吸い上げ、ビーカーに慎重に落とした。ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん。爽やかで、少しだけ苦味のある香りが、ぱっと広がった。


「いいか。ただ落とすだけじゃない。君の記憶の中の『光』を、この一滴一滴に込めるんだ。念じろ。光になれ、と」


「ひ、光に……」


そんなこと、できるんだろうか。半信半疑のまま、私はもう一度目を閉じて、記憶の中のキラキラした光を思い浮かべながら、ベルガモットの香りを吸い込んだ。


すると、不思議なことが起こった。


ただの柑橘系の爽やかな香りだったはずのベルガモットが、もっとずっと、温かくて、優しい光の粒子みたいに感じられるようになったのだ。


「わ……」


「それが共鳴だ。君の意志が、素材の持つ力と結びついた証拠だ」


馨先輩の声が、少しだけ満足そうに聞こえた。


「次、ハートノート。香りの中心、魂となる部分だ。君の記憶の中の『絶対的な安心感』。それを表現する」


先輩はそう言うと、今度は棚から、乳白色の液体が入った瓶を取り出した。


「カモミールと、サンダルウッド。それから、ごく微量のバニラ。これらを調合して、君の記憶にある『温かさ』を再現する」


先輩が、手際よく液体を混ぜ合わせていく。その真剣な横顔は、やっぱり見惚れてしまうほど綺麗で、私はまた、心臓がドキドキするのを感じていた。


「星野。手を貸せ」


「え?」


「いいから」


言われるがままに左手を差し出すと、先輩はその手の上に、調合したばかりの乳白色の液体を、一滴だけ落とした。


「……!」


ひんやりとした感触の後に、信じられないくらい、優しくて、甘くて、心がほっとするような香りが、ふわりと立ち上った。


それは、ただ甘いだけじゃない。カモミールの柔らかな香りと、サンダルウッドの落ち着いた深い香りが、絶妙なバランスで混じり合って、まるで、温かいミルクに蜂蜜を溶かしたような、そんな懐かしい安心感を与えてくれる。


「これが、安心感の香り……」


「ああ。だが、まだ足りない。最後の仕上げは、君自身の力だ」


先輩はそう言うと、私の左手を、彼自身の両手でそっと包み込んだ。


「え……っ!?」


「動くな。そして、もう一度、全力で思い出せ。陽だまりの中の猫の、あの温もりを。君が感じた、あの絶対的な安心感を。この香りに、君の魂を吹き込むんだ」


包み込まれた手から、先輩の体温が伝わってくる。すぐ目の前にある、彼の真剣な瞳。雨上がりの森みたいな、澄んだ香り。


もう、私の心臓は限界だった。


嬉しいとか、恥ずかしいとか、そういう感情がごちゃ混ぜになって、頭の中が真っ白になる。


(だめ、だめだめ……!集中しなきゃ……!)


私は必死で、先輩の存在を意識の外に追い出そうとした。そして、記憶の奥底にある、一番大切な宝物を、ぎゅっと抱きしめる。


温かい、陽だまり。ふわふわの、毛並み。


大丈夫。大丈夫だよ。ここにいれば、何も怖くない。


そう念じた瞬間。


私の手首から、ふわり、と金色の光が立ち上ったように見えた。


そして、カモミールとサンダルウッドの香りが、ぐっと深みを増して、もっとずっと、温かくて、生命力に満ちた香りに変化したのだ。


「……やった」


馨先輩の、安堵したような声が聞こえた。


その声に、私はハッと我に返る。いつの間にか、私の頬を、一筋の涙が伝っていた。


なんで泣いてるんだろう。分からない。でも、胸がいっぱいで、温かくて、どうしようもなかった。


「最後に、ベースノート。香りを支える土台だ。これは、俺がやる」


先輩はそう言うと、私の手を離し、最後の仕上げに取り掛かった。


何種類かの樹脂系の香料を、手際よく調合していく。それは、どっしりとしていて、少しだけスモーキーな、大地の匂いだった。


「これは、君の記憶の中の『土の匂い』と、君自身の『存在の証』だ。どんなに辛いことがあっても、君は確かに、ここにいる。その揺るぎない事実を、香りの土台にする」


先輩の言葉が、一つ一つ、私の心に染み込んでいく。


存在の、証。


今まで、自分の存在なんて、消してしまいたいとずっと思っていたのに。


先輩は、私の存在そのものを、肯定してくれている。


全ての調合が終わった液体を、先輩はゆっくりとガラスの瓶に移し替えた。透明な液体が、夕日を浴びて、淡い琥珀色に輝いている。


「……できたぞ」


そう言って、先輩は完成したばかりの香水を染み込ませた試香紙を、私にそっと差し出した。


私は、震える手でそれを受け取り、おそるおそる、鼻に近づけた。


その瞬間。


私の意識は、一瞬で、あの懐かしい陽だまりの中に引き戻された。


最初に香り立ったのは、ベルガモットの、キラキラした光の香り。


次に、カモミールとサンダルウッドが作り出す、胸がいっぱいになるような、温かくて優しい安心感の香り。


そして、最後に、全てを優しく包み込むような、大地と、微かなお日様の匂い。


「……あ……」


声にならない声が、漏れた。


これは、私の記憶そのものだった。私の、一番幸せだった瞬間が、この小さな紙切れの中に、完全に再現されている。


「どうだ。これが、君の最初の香水だ」


馨先輩が、少しだけ誇らしそうに言った。


私は、もう、涙を堪えることができなかった。


「うっ……ううっ……!」


嬉しいのか、悲しいのか、自分でも分からない。ただ、涙が、後から後から溢れてきて、止まらなかった。


今まで、私の身体から生まれるものは、全部、周りの人を不快にさせる「悪臭」だった。私の感情は、呪いそのものだった。


でも、今、目の前にあるこの香りは、違う。


私の心の中から生まれたものが、こんなにも美しくて、温かくて、心を揺さぶるものになるなんて。


初めてだった。自分の内面にあるものが、誰かに、そして自分自身に、肯定されたのは。


「な、なんで……泣くんだ……」


先輩の、少しだけ狼狽えたような声が聞こえる。


「だ、だって……嬉しい、から……っ」


私はしゃくりあげながら、必死で答えた。


「こんなの、初めてで……私の、中から……こんな、綺麗なものが、生まれるなんて……思わなかったから……っ」


すると、先輩はしばらく黙り込んで、それから、大きなため息をついた。


「……手間のかかる実験体だ」


そう言いながらも、その声は、どこか優しく聞こえた。


先輩は、完成した香水を、指先ほどの大きさの、小さなガラスの小瓶に詰めてくれた。そして、それを私の手のひらに、そっと乗せる。


「やる。それは、お前の『お守り』だ」


「お守り……?」


「ああ。辛い時や、不安な時は、それを嗅げ。君の原点を、幸せの記憶を、思い出させてくれるはずだ」


ぶっきらぼうな言い方。でも、その言葉には、先輩なりの優しさが詰まっているのが分かった。


「ありがとうございます……!」


私は、その小さな小瓶を、宝物みたいに、ぎゅっと握りしめた。


私の呪いが、初めて、価値のあるものに変わった瞬間だった。


夕日が、窓から差し込んで、部屋中をオレンジ色に染めている。キラキラと舞う埃が、まるで祝福の紙吹雪みたいに見えた。


私は、涙で濡れた顔で、目の前に立つ先輩を見上げた。


その時、ふと、気づいた。


先輩の顔が、夕日に照らされて、どこか寂しそうに見えたことに。


その黒い瞳の奥に、私が今まで見たことのないような、深い悲しみの色が、一瞬だけよぎったような気がした。


(……先輩にも、何か、悲しいことがあるんだろうか……?)


その疑問が、胸の中に、小さな棘みたいに、ちくりと刺さった。


でも、その理由を、今の私に尋ねる勇気は、まだなかった。

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