パルファム・ド・ラ・マレディクション ~呪い香の錬金術師~

☆ほしい

第1話

第1話 悲鳴みたいな匂いの私

私の名前は、星野雫。県立碧凪(あおなぎ)高校に通う、ごくごく普通の高校一年生。……だと、本当は胸を張って言いたかった。


けれど現実は、普通とは程遠い。なぜなら私には、呪いがあるからだ。


それは、私の感情が「匂い」になって身体から漏れ出てしまう、というもの。


嬉しい時、楽しい時。そんなポジティブな感情の時は、まだいい。ふわりと甘い、お花みたいな香りがするらしい。まあ、そんな機会、最近はめったにないんだけど。


問題は、ネガティブな感情の時だ。


緊張すると、焦げ付いたような匂い。不安な時は、湿った雑巾みたいな匂い。そして、悲しい時や苦しい時は……ごめんなさい、自分でもよく分からない。ただ、みんなが顔をしかめるような、ひどい「悪臭」になってしまうことだけは確かだった。


だから私は、いつも息を潜めて生きている。


できるだけ感情を動かさないように。心を無にして、ただの背景になる。それが、私がこの高校で三年間を平穏に過ごすための、唯一の方法だった。


今日も、教室の窓から二番目の席で、私は完璧な「背景」になっていた。春の柔らかな日差しが、真新しい教科書の上でキラキラと踊っている。周りでは、クラスメイトたちが楽しそうにおしゃべりをしていて、教室は明るいざわめきに満ちていた。


(いいな……私も、あんなふうに笑ってみたい)


心の中で、ぽつりと呟く。ダメダメ、そんなこと考えちゃ。羨ましいなんて思ったら、また変な匂いが出ちゃうかもしれない。私は慌てて頭を振って、意味もなくシャーペンを握りしめた。


感情の蛇口を、きゅっと固く締める。大丈夫。私は石。私は空気。誰にも迷惑をかけない、ただの置物。


「はーい、みんな席についてー。今日の現代社会は、グループワークをしまーす」


先生の能天気な声が、私の心を容赦なくかき乱した。


(グループワーク……嘘でしょ……)


心臓が、どくん、と嫌な音を立てる。背中にじわりと汗が滲むのを感じた。やめて、お願いだから。焦げ付いた匂いが出ちゃう。


先生が黒板に書いたテーマは、「現代社会におけるコミュニケーションの重要性」。なんて皮肉だろう。コミュニケーションが苦手で、呪いのせいで誰とも話せない私に、その重要性を語れっていうの?


「じゃあ、そこの列で四人グループ作ってー」


無情な宣告。私の周りの席の子たちは、待ってましたとばかりに素早く机をくっつけ始めた。あっという間に三人グループが出来上がり、そして、ぽつんと一人、私が取り残される。


知ってる。こうなることは、分かってた。中学の時から、ずっとこうだったから。


「あれ? 星野さん、一人?」


先生が私に気づく。やめて、こっちを見ないで。クラス中の視線が、私に突き刺さるのが分かる。痛い。痛い痛い痛い。


「ご、ごめんなさい……あの……」


「しょうがないわね。じゃあ、そこのグループに入れてもらって」


先生が指さしたのは、クラスの中心的存在である、陽キャグループだった。リーダー格の赤西さんが、あからさまに「えー」と顔をしかめるのが見えた。


「……よろしく」


私は消え入りそうな声で言って、おずおずと机を動かす。グループの輪に加わった瞬間、ふわりと漂ってきたのは、彼女たちの甘い香水の匂い。そして、私の身体からは、きっと最悪の匂いが立ち上っているはずだ。


(どうしよう、どうしよう……!)


緊張と不安で、頭が真っ白になる。湿った雑巾と、焦げ付きの匂いが混じり合った、最悪の悪臭。自分でも分かる。だって、隣に座った子が、こっそり鼻をつまんだのが見えたから。


「ねえ、なんか臭くない?」

「さっきから……生ゴミみたいな?」


ひそひそと交わされる会話が、鋭いナイフになって私の胸を抉る。


ズキッ。


心が悲鳴を上げた。


違う。違うの。わざとじゃない。私も、いい匂いの女の子になりたい。みんなと、普通におしゃべりしたい。そう思ってるのに。


涙が、じわりと滲んできた。ここで泣いたら、もっとひどい匂いになる。分かってるのに、涙腺は言うことを聞いてくれない。


「あのさぁ、星野さん。悪いけど、もうちょっとあっち行ってくんない?」


赤西さんが、ついに耐えきれなくなったように言った。その目は、汚いものを見るような、冷たい光を宿していた。


「……っ」


もう、限界だった。


「ごめんなさいっ!」


私は椅子を蹴立てるように立ち上がると、そのまま教室を飛び出した。後ろで先生が何か叫んでいたけれど、もう聞こえなかった。


廊下を無我夢中で走る。涙で視界がぐにゃぐにゃに歪んで、どこを走っているのかも分からない。ただ、この悪臭から、みんなの冷たい視線から、一秒でも早く逃げたかった。


息が切れて、足がもつれて。たどり着いたのは、普段は誰も使わない旧校舎の裏手だった。古い木造の校舎が、西日でオレンジ色に染まっている。もうここまで来れば、誰も追いかけてこないだろう。


私はその場にへたり込むと、もう我慢できずに声を上げて泣いた。


「うっ……ううっ……ひっく……」


なんで、私だけ。どうして、こんな身体に生まれちゃったの。


友達が欲しい。ただ、それだけなのに。その願いが、どうしてこんなに遠いの。


地面に染みを作っていく涙を見つめながら、絶望が心を真っ黒に塗りつぶしていく。もう、学校に来るのも嫌だ。誰にも会いたくない。いっそ、このまま消えてしまえたらいいのに。


そんな風に、どん底まで沈み込んでいた、その時だった。


ふわり。


どこからか、信じられないくらい、いい香りがした。


それは、今まで嗅いだことのない香りだった。甘いだけじゃない。爽やかなだけじゃない。澄み切っていて、清らかで、まるで傷ついた心をそっと撫でてくれるような、優しくて温かい香り。


(……なんの、匂いだろう)


涙で濡れた顔を上げる。香りは、旧校舎の方から漂ってくるみたいだった。まるで、おいで、と手招きされているかのように。


私は、何かに憑かれたように、ゆっくりと立ち上がった。


一歩、また一歩と、香りのする方へ近づいていく。旧校舎の軋む廊下を通り抜け、一番奥の突き当たり。そこに、古びた木の扉があった。


プレートには、掠れた文字でこう書かれている。


【香術部】


(こうじゅつぶ……?)


聞いたことのない部活の名前。でも、あの不思議な香りは、間違いなくこの扉の向こうからしている。


ごくり、と喉が鳴る。開けてもいいんだろうか。でも、知りたい。この心を救ってくれた香りの正体を。


私は意を決して、冷たいドアノブに手をかけた。ぎい、と重たい音を立てて、扉が開く。


その瞬間、さっきよりもずっと濃密な香りが、私を優しく包み込んだ。


「わ……」


思わず、声が漏れた。


部屋の中は、まるで別世界だった。壁一面の棚には、大小様々なガラスの小瓶がびっしりと並んでいる。その一つ一つが、夕日を受けて宝石みたいにキラキラと輝いていた。机の上には、見たこともないフラスコやビーカー、アルコールランプが置かれていて、まるで理科の実験室みたいだ。


そして、その部屋の中心。窓辺に置かれた大きな作業台の前に、一人の男子生徒が立っていた。


夕日に透ける、絹糸みたいにサラサラな黒髪。すっと通った鼻筋。真剣な眼差しで、手元のビーカーを覗き込んでいるその横顔は、まるで一枚の絵画みたいに綺麗だった。着ている白衣が、彼の知的な雰囲気をさらに際立たせている。


(……きれいな、人)


あまりの美しさに、私は息を呑んだ。この人が、あの香りを作っているんだろうか。


その時、彼がふと、私の存在に気づいたようだった。ゆっくりとこちらを振り返る。


射抜くように真っ直ぐな、黒い瞳。その瞳が私を捉えた瞬間、時間が止まったような気がした。


どきっ。


心臓が、大きく跳ねる。まずい。また、変な匂いが出ちゃう。


私が後ずさりしようとした、その時。


彼が、静かに口を開いた。


「……悲鳴みたいな匂いがする」


え?


私は自分の耳を疑った。


今まで、私の呪いの匂いを嗅いだ人は、みんな「臭い」としか言わなかった。「生ゴミ」とか「雑巾」とか、そういう、ただ汚いものとして。


でも、この人は違った。


「悲鳴みたいな匂い」


それは、私の心そのものだった。教室を飛び出してきた時の、張り裂けそうな心の叫び。それを、この人は正確に言い当てたのだ。


初めてだった。私のこの呪いを、本当の意味で理解してくれた人なんて。


(この人なら……)


絶望で真っ暗だった私の世界に、一筋の光が差し込んだような気がした。キラキラと輝く、希望の光。


(この人なら、私の呪いを、分かってくれるかもしれない……!)


何かを言わなくちゃ。そう思うのに、喉がカラカラに乾いて声が出ない。ただ、目の前の美しい人を、食い入るように見つめることしかできなかった。


すると、彼が手にしていたフラスコをそっと机に置いて、私の方に一歩、近づいてきた。


カツン、と床を鳴らす革靴の音に、私の肩がびくりと震える。


彼の顔が、すぐそこにある。さっきまで部屋中に満ちていた優しい香りが、彼自身から発せられていることに気づいた。それは、雨上がりの森のような、どこか切なくて、でも心が洗われるような香りだった。


彼は私の目の前で立ち止まると、少し首を傾げて、私のことを頭のてっぺんからつま先まで、じろりと観察するように見た。そして、面白そうに、ふっと口の端を上げた。


その笑みは、天使というより、少し意地悪な小悪魔みたいで。


「君、面白い匂いだな」


そう言うと、彼は私に綺麗な指先を差し向けた。


「俺の実験体になれ」


「え……?」


予想外すぎる言葉に、私の思考は完全に停止した。


じ、実験体?


私が聞き返すと、彼は楽しそうに目を細めて、もう一度、はっきりと繰り返した。


「聞こえなかったか? 俺の、実験体になれって言ったんだ。その呪われた匂い、なかなか興味深い」


悪びれもせずに言い放たれた言葉に、私はただ呆然と立ち尽くす。


この人はいったい、何者なの?


そして、これから私、どうなっちゃうの――!?

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