第5章:氷の下の温もり

「クッキーさん」が私の店に通い始めて、二週間が経った。


 もはや彼の来店は、すっかり私の一日のルーティンに組み込まれていた。毎日午後二時、店のドアがカランと鳴り、あの大きな背中が現れる。そして無言でクッキーを買い、去っていく。


 最初の頃こそ緊張していたが、慣れとは恐ろしいものだ。最近では、「クッキーさん、こんにちは」と心の中で挨拶しながら、笑顔で彼を迎えられるようになっていた。


 ある雨の日、私は店の裏で、市場から仕入れた大量のハーブを運んでいた。雨に濡れた木箱はずっしりと重く、非力な私では一度に一つ運ぶのがやっとだ。


「う、んしょ……っ!」


 よろけながら木箱を持ち上げたその時、ぬるり、と手が滑った。木箱が傾き、私はバランスを崩す。


「きゃっ!」


 地面に叩きつけられる、と覚悟して目を閉じた瞬間。ふわりと体が軽くなった。いや、正確には、私の腕から木箱の重さが消えていた。


 恐る恐る目を開けると、目の前にあの「クッキーさん」が立っていた。彼はいつの間に現れたのか、私が持っていた木箱を片手で軽々と持ち上げている。そして、相変わらず無表情なまま、私を見ていた。


「あ、あの……ありがとうございます」


「……どこへ運ぶ」


 低い声で短く尋ねられ、私は慌てて店の裏口を指さした。彼はこくりと頷くと、重い木箱をまるで羽根のように軽々と運び、指定した場所に置いてくれた。それだけではない。私が運ぼうとしていた残りの木箱も、あっという間にすべて運び終えてしまったのだ。


「助かりましたわ。本当に、ありがとうございます」


 深々と頭を下げる私に、彼は何も言わず、ただじっと私を見つめている。その銀灰色の瞳は、雨のせいか、いつもより少しだけ潤んで見える気がした。


「……怪我はないか」


「え? あ、はい。おかげさまで」


「そうか」


 それだけ言うと、彼はいつものように店に入り、ハーブクッキーを一つ買って、去っていった。その後ろ姿を見送りながら、私の胸はぽかぽかと温かくなっていた。


(……優しい人、なのかもしれない)


 無愛想で怖い人だと思っていたけれど、本当は違うのかもしれない。あの冷たい表情の下には、温かいものが隠されているのではないか。そんな予感がした。


 その予感が確信に変わったのは、それから数日後のことだった。


 その日は珍しく、夜に店を開けていた。街の祭りの日で、夜まで人通りが絶えなかったからだ。店じまいをしようとしていた時、酔っぱらいの男たちが二人、店に絡んできた。


「よぉ、嬢ちゃん。一人かい? 俺たちと一杯どうだ?」


 下品な笑みを浮かべ、馴れ馴れしく肩に手を置かれそうになる。私は顔を青くして後ずさった。


「や、やめてください!」


 しかし、酔っぱらいはしつこく迫ってくる。アンナは今日の昼過ぎに実家(と言っても街のパン屋だが)に帰ってしまっていて、私一人だ。どうしよう、と恐怖で体がすくんだ、その時だった。


 店の入り口の影から、ぬっと大きな人影が現れた。


「――その女から、手を離せ」


 地を這うような低い声。振り返った酔っぱらいたちの目に映ったのは、静かな怒りをたたえた銀灰色の瞳を持つ、「クッキーさん」だった。彼は昼間とは違う、黒いマントを羽織っている。夜の闇に溶け込むその姿は、まるで死神のようだ。


「な、なんだてめぇ!」


 凄んだ酔っぱらいの一人が彼に殴りかかろうとしたが、「クッキーさん」は微動だにしない。ただ、その鋭い視線で酔っぱらいを射抜くだけ。それだけで、酔っぱらいの動きがぴたりと止まった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、男たちは顔を引きつらせ、がたがたと震え始める。


「……消えろ」


 たった一言。しかし、その声に含まれた殺気は本物だった。男たちは「ひぃっ!」と悲鳴を上げると、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


 静まり返った店内で、私はまだ心臓をバクバクさせながら、彼を見上げた。


「あ、ありがとうございました……。また、助けていただいて……」


 彼は私の前に立つと、何も言わずに私の手を取った。その手は大きくて、少しごつごつしているけれど、不思議と安心する温かさがあった。


「……無事で、よかった」


 初めて聞く、彼の心からの安堵がにじむ声。その瞬間、私の心の中で、彼への恐怖心は完全に溶けてなくなっていた。


 氷のように冷たいと思っていた彼の瞳の奥に、確かな温もりを見つけた気がした。

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