デッドエンド/アフター ~ラスボス系ヒロインと行く生き返り争奪戦~

龍川芥/タツガワアクタ

プロローグ

Deadend/

 ――ちる。

   地獄の底へ、逆様さかさまに。



 落下だった。

 失墜だった。

 抗いようのない堕天だった。

 死者の魂が天の国へ召されるとき、それは穏やかな昇天とされるけれど……これはまるっきりその逆で。

 『地獄の底』への墜落とは、全ての幻想を削ぎ落された自由落下に他ならなかった。


 高速で浮上する景色、全身を下から叩く冷風に理解する。

 もはや助かる術はない。

 逃れる道もまた同様に。

 ぐしゃりと潰れて、はい、おしまい。

 この身もまたそうやって、刑罰に屈しこの奈落に身を投げた無数の亡者たちと同様、名もなき罪人として果てるのだろう。

 なんて救いのない、結末。

 けれど、それも当然なのかもしれない。


 「生きるとは罪を犯すこと」。

 そう、誰かが言った。

 何かを欲し伸ばした手が、手に入れようと掴む力が、何も傷付けぬ例などないと。

 何かを奪って汚れた手が、今まで犯した数多の罪が、その命を作っているのだと。

 ならば、本当にそうだと言うのなら……。

 これが、この結末が、地獄を必死で生きた俺へと遂に下された罰なのだろう。

 この奈落への墜落死こそが、生という罪への清算としてあらわれた罰に違いない。


 生という罪が、死という罰でゆるされる。

 あるいはそれこそが真の救いであるのかも、なんて、迫る死の中で直感して。



 ――嗚呼、けれど。

 手を、伸ばす。

 見苦しくも罰を拒むように、上へ。

 きらり、が眩しく瞬いたから。


 そうだ、俺は。

 罪であると知って尚、焦がれずには居られないものを見た。

 いずれ訪れる終わりすら、眩しく彩る輝きを知った。

 それは今も遠ざかる彼方、決して届かぬ距離の先。

 地獄のソラにて瞬いた、星明りが如き罪の光へ、俺は抗うように手を伸ばして――。







     ▶Deadend/after







「……う」


 ……目を、覚ます。

 泥土の中から浮上したような、重い目覚めだ。

 どうやら、気を失っていたらしい。地獄の亡者は眠りという安らぎを赦されないのだから、覚醒といえば気絶から脱する時のみである……なんて考えるまでもなく、後頭部から腰までを奔る鈍い痛みにそのことを理解させられる。


 ――鈍痛。

   それは思考の輪郭を際立たせるように。


 地獄における亡者の肉体――つまりこの体が、現世の人間のそれより幾ばくか頑丈らしいということは、俺の知る数少ない知識のひとつだ。とはいえ骨が折れたりすれば完治まで一昼夜はかかるものだが……どうやら、その心配は無さそうだった。この感じなら、せいぜい罅が入った程度だろう。

 尤も、数年程度しか培っていないこの自分の感覚とやらは、いまいち信用に欠けるのだけれど。


 地獄の住人として、多少の痛みには慣れている。それが今は不幸中の幸いであった。動くたび枯れ木が軋むみたいに体内で押し殺した悲鳴が上がるが、何とか動けないこともない。

 それよりも問題は、周囲を見渡せるようになって漸く気付いた現状の方だった。


「暗い、寒い……。ここは、一体……?」


 そう思わず呟く程に周囲は暗く。吐いた声が震える程に寒かった。


 ――昏冥。

   それは思考すら呑み込むような。


 明かりはない。

 首を回しても、見上げても視界に変化はない。

 ただ、暗闇。

 失明したわけではないと分かるのは……味わったことのない寒さに震える、今にも凍り付きそうな己の掌が辛うじて視認できるから。


 ――凍寒。

   それは思考を芯から凍てつかせるようで。


 嗚呼、陽光を主の――神様の愛であるとするのであれば。

 世界に色を与える光も、命が続くことを許す熱もないここは、きっと主に見放された土地であった。

 そう思わせる程の暗黒。巨大な生物の遺骸のように静寂だけが横たわる、無の世界。

 一体ここはどこなのだろう。

 こんなに暗く寒く、そして寂しい場所を俺は知らない……。


 あるいは、その問いに答えるように。

 ずきん、と頭が一層痛んで、衝撃で箱が空くように直近の記憶が脳内を巡った。


 ――疼痛。

   それは思考の蓋を開くように。


 思い出す。ここに至るまでの、経緯を。


「そうか、俺は……に、落ちたのか」


 正確には「落とされた」だが。

 ともかくそれが、俺の置かれた現状において、唯一分かる事柄であった。




 現世にて罪を犯し、死んだ、遍く罪人が堕ちる死後の世界――『地獄』。

 見かけ上は縦長の巨大空洞の中にあるこの脱出不能の監獄は、上から罪の軽い順に第一から第八までの層に分けられている。

 そんな地獄の、最低とされる第八層よりも更に下。地獄と言う空洞の正真正銘の最底辺に、罪人たちの廃棄場は在った。


 その地こそ地獄の最深部。深い闇に覆い隠された深淵の地にして、刑罰の苦しみに耐えられなくなった者が身を投げる死域。

 地獄の全層を真っ直ぐに貫く、全ての亡者に開かれた墓穴。

 ――地獄の、底。

 落ちた者が戻って来たためしのない奈落こそが、俺が墜とされた絶望の地に与えられた、不吉なる唯一の名であった。




 地獄の概要と現在地の曰く、そしてここに至る経緯までを思い出し。


 俺は、闇の大地を踏み締めゆっくりと立ち上がった。

 ざり。踏んだ土が悲鳴じみて音を鳴らす。

 それに共鳴してか、体内で痛みが輪唱し体をぐらつかせるが……何とか堪え踏み止まる。大丈夫、歩けない程ではない。


「……とにかく、出口を探さないと。地獄の構造からして、上に戻る道が端の方にあるはず」


 ちゃり、と右手首で鳴った、どこにも繋がっていない汚れた手枷を撫でる。

 思い出した記憶によれば、は切迫している。最早一刻の猶予も無い。

 ――戻らなければ。

 意志が着火剤となり、立ち上がる足に活力の火が宿る。


 そうして立ち上がって、奮起して……実に間抜けなことに、俺はようやく気付くのだった。


「……端って、どっちだ……?」


 四方八方を満たす暗黒は、風景も自分の立ち位置も、その全てを覆い隠してしまっていた。

 どこに進むべきかなどまるで分からない。

 ……いや、きっと進む方向が分かっても、俺の足は固まったままだっただろう。

 だって……初めて目の当たりにした濃い暗闇の中には、過去味わったことのない大量の恐怖が住んでいたから。


 おぉん、と鼓膜を揺らした音は、空洞音か耳鳴りか、あるいは生物の鳴き声なのか。

 ああ、今しがた、闇に隠されたすぐ傍を何かが通過したような。

 一歩進んだ先が更なる奈落への断崖なのでは、なんて想像が止められない。

 そういえば、確か姉が言っていた。「地獄の底には恐ろしい怪物が居て、身投げした者を喰らうのだ」と……。


 進む先も分からない。一歩先に何が待つのかも分からない。

 闇が連れて来た幾多の恐怖は、俺を圧し潰さんばかりであった。

 嗚呼、闇が俺を唆す。膝を折ってしまえと、耳を塞いで蹲れと、そう耳元に囁いて来る。

 余りの恐怖に、事実、俺は思わず膝を折ってしまいそうになって――。


「……姉さん」


 声にして、瀬戸際で堪えた。

 彼女のことだけが、この深い暗闇の恐怖に拮抗できる、俺の中に残った唯一の光であった。

 ぐっと総身に力が入る。痛みさえ彼方へ忘却する。

 恐怖で喉が締まっても、魂だけは叫び続けている……姉さんの為、こんな所で立ち止まってはいられないと、強く。


 恐怖に抗い、一歩。

 不安を振り払い、また一歩、と。

 地獄の底を、無間の闇へ、震えながらも確かに踏み出す。


「ちょっとだけ待っててくれ。今、助けに行くから――」


 半ば自分に言い聞かせるように言って、更に一歩。

 次の一歩先にあるものさえ分からず、それでも進む。

 足元も見えない悪路に何度も転び、その度立ち上がって。

 怖いけれど、もう一歩。

 刻むように、抗うように、進む。



 ……そうやって、どれほど歩いただろう。

 たった十数歩か、それとも数刻歩き続けたのか。

 歩数も時間も数えれぬ、感覚を麻痺させる暗い恐怖の中……ふと、足を止めた。


 暗闇に臆したのではない。不安に屈したのでもない。

 それは「足を止めた」というより、「身構えた」というのが正しかった。

 思わず、震え声で独り呟く。


「……今。何か動いた、ような……」


 腰を落とし、一秒、二秒……身構えたまま周囲に、僅かに静寂が揺らいだ気がする暗闇の向こうへと全意識を向ける。

 何も見えないのは当然として……何も聞こえない。何も、感じない。

 ……気のせい、だったか。

 そう判断して、再び歩き出そうとしたときだった。


 ――ざざ。


 風音――?

 それに似た、透明なほど朧げな、音。

 恐怖が聴かせた錯覚、幻聴の類だろうか……いや、違う!


 ざ、ざざざざ――。


 音がだんだんと大きくなっていく。圧さえ感じさせる、音。

 それは、獣が草を搔き分けるような。大波が浜に寄せるような。


 ざざざざざざざざ――!


 音は、最早聞き間違えようもなく。圧は無視できぬ程の気配を放ち。

 直感、本能の類が理解する。

 これは――何かが、物凄い速度で近づいて来る――!


 瞬間、黒い風が全身を叩いた。

 思わず腕で顔を覆って踏ん張るが……嗚呼、きっとその場で踏ん張るのではなく、背を向けて逃げるべきだったのだろう。

 そう後悔するのも当然の帰結。なぜならば――闇の向こう、そう遠くない距離で、が声を発したのだから。


「――誰だ」「誰だ」「我が眠りを妨げるのは。我が領域を侵すのは、誰だ」


 ――それは、獣が荒く息巻くような。

 恐怖そのものが音になったが如き、声。


 声を聴いた瞬間、俺は本能で理解した。

 巨体だ。人ではない。もっと大きい、もっと悍ましい、異形のがそこに居る。

 果たして、そのことを証明するように――闇が、裂ける。

 

 横一線から、ぱかりと丸く。

 鬼火じみて空中に発生した、二個一対の丸い光……それは紛れもなく、暗中にて禍々しく輝く血走った獣の双眸だった。

 それがひとつ、ふたつ、みっつ。左右上下の暗闇の向こう、見上げんばかりの高さから、漆黒の闇を貫通してこちらを睨み付けている。あれが目だというのなら、持ち主の体高は俺の五倍はあるだろうか。


「見えるぞ」「匂うぞ」「感じるぞ」「地獄にて蠢く、未だ死にきれぬ亡者の気配だ」


 驚愕に立ち尽くしているうちに、光る瞳は更に四対増えた。

 ざざざ、と何かが横から背後に回り込み、逃げ道を塞がれたと直感する。まるで蛇がとぐろを巻くように、何かがこちらを囲んでいる。

 そして。

 俺の至近で、遂に、八対目の眼がぱちりと開く。


 嗚呼、それは。

 俺の顔よりも尚大きな、黄金の球塊を思わせる巨大な瞳――。


「誰の許しを得てここに踏み入る、亡者よ」「ここは地獄の底の底」「澱の如く、塵の如く、罪が吹き溜まり形を成す場所」「――即ち、我が領域なるぞ」


 見えずとも分かる牙の生えた口、そこから漏れた生温い息は、俺の体を炙るように撫でた。

 声、息遣い、瞳。

 確信があった――この『誰か』には八つの、それも巨大なる異形の首がある。それらが順々に、同じ意志のもと人語を叫んでいるのだと。


「ああ――ああ!」「苛立たしい、その鼓動の音が!」「妬ましい、罪に汚れぬその体が!」「欲しい、その血が、肉が、魂が!」


 左右から。上方から。後背から。

 口々に舌舐めずりの声が飛び、欲望を込めた視線がこちらを絡めとるように注がれて。


 姉の話が脳裏で弾ける。

 そうか。

 これが地獄の底に住む、身投げした者を喰らう恐るべき怪物――。


「喰ろうてやる」「犯してやる」「殺戮し蹂躙し凌辱してやる!」「後悔せよ亡者よ、地獄の底、大罪の化身たる我が前に堕ちたことを――!」


 猛る咆哮が、周囲に蟠る暗闇さえも圧したのか。

 闇と同化する怪物の輪郭が、僅かに見えた。


 それは八つの首を持つ竜にも似た、人など似ても似つかぬ異形の獣。

 首はひとつひとつが俺を容易に丸呑みできるだろうほど太く、そしてこの世のどんな大蛇よりも長く。それらによって周囲を完全に囲まれており、既に逃げ場はどこにもない。



 ――そうとも、此処は地獄の底。

   墜ちし者が再び戻った例などない、最も深い絶望の地。

   そして眼前の巨獣こそが、星の深奥に住まう番人、絶望の執行者たる八つ首の怪物――。



 嗚呼、致死の牙が迫る。

 恐怖に叫ぶか、逃げようと足掻くか、それとも絶望に膝を折るか。

 なんにせよ、これが人生最後の選択となるだろうと本能がひとりでに直感し。


 けれど、俺は……気付けば、口を開いていた。


「……はじめ、まして。きみ、名前は?」


 ――ぴたり。怪物の動きが止まる。

 その大口が俺を喰らうという目的を忘れ、呆けたように声を出す。


「――は? ナ、マエ? 名前を、我に尋ねたのか、今?」


 声から伝わる困惑。野太い異形の怪物の声はしかし、妙にふつうの人間らしくて……何が解決したという訳でもないのに、ふっと、安堵の感情が胸に生まれた。


 名を訊いたことに、論理的思考があったわけではない。きっと愚かでさえあっただろう。

 ただ、俺は……嬉しかったのだ。

 此処が地獄の底、この世で最も深い暗闇の中ゆえに。

 その中で聴いた他者の声は、確かに俺を、先の見えぬ孤独から救い出してくれたから――。


 ――だから、その話を持ち掛けることに迷いはなかった。


「ああ……ごめん、言いたくないのなら構わない。名が無いってこともあるだろうし。ただ、話を聞いてほしいんだ。

 地獄の底の怪物よ――きみは、生き返りたくはないか?」

「『生き、返る』?」


 ぴくり、と怪物が反応する。

 今度はただの困惑ではない。興味を抱いて貰えたと、そうなんとなく理解する。

 その一番近い首がゆっくりと近付き……きっと初めて、金の眼がじっと俺を見据えた。視線が、熱した針のように肌を刺した。


「……『生き返る』、と言ったか、今。愚かなりし亡者よ、貴様、偽りの生にしがみつかんと虚言を弄するか? ……いや、ふむ、不実の匂いはせぬな。まさか、この永遠の闇に閉ざされた地獄から、光満ちる現世へ這い出す方法が有るとでも」

。この地獄から抜け出す方法が、たったひとつだけ」


 怪物の視線を、焼くような圧を受けてなお堂々と。

 そうだ。地獄に堕ちた者たちは、確かに、皆そのことを告げられた。

 永劫抜け出せぬ地獄より救われ、生者として現世へ舞い戻る、たったひとつの方法があると――。


「――それは『腕輪』を集めることだ。神様が地獄のどこかに落とした八つの腕輪。八つの大罪に対する八つの美徳、それぞれ名を冠する腕輪を全て集めた者ただひとりが、現世への復活という奇跡を手にする。

 地獄の罪人たちによる、生き返りを懸けた神様の奇跡の奪い合い――それが今地獄で行われている、『恩寵争奪』の戦いだ」


 それは試練にして罰。救済にして絶望。

 かの悪王によって過去最大に増えし地獄の住民、その口減らしにして、ただ1人以外の全ての亡者が与えられた希望を奪われるという罰でもある、全員参加の争奪戦。

 ただ、それでも地獄は沸き立った。我こそが現世に復活するのだという亡者たちによって……もまた、そんな亡者のひとりではあるのだろう。


 そして、改めて。

 俺が今使える交渉の材料は、これただ一つしかない。


「……その、復活に必要な八つの腕輪のひとつ、『無私の腕輪』の在処を知っている。

 それを教える代わりに、ひとつだけでいい、どうか俺の願いを聞いてほしい」


 ……沈黙が、地獄の底に下りた。


 言うべきことは言った。あとは怪物が何を思うかだ。

 じわり、緊張に手汗が滲む。

 果たして……怪物が、牙の並んだあぎとを開く気配があった。


「――ふむ。確かに言われてみると……この地獄の内に本来有り得ざる天上の父の力、その気配を複数感じるな。小僧、どうやら貴様の言い分も、あながち大嘘ではないらしい」

「! な、なら……」

「だが、貴様の言い分は信じるに値せん。『腕輪の在処を教える』? 地獄の罪人が復活の奇跡をみすみす手放すものか。欺き、騙し、どうにか腕輪を己が手中に収めようとするに決まっておる。

 それとも……まさか貴様、『自分は何も欲しません』などと、聖人じみた世迷い言をのたまうつもりではあるまいな?」


 ……成程、怪物の言い分は尤もだ。

 金の双眸が凄烈かつ冷徹にこちらを睨んでいる……返答を誤れば、即座に食い殺されるだろうと何となく分かる。けれど、何を以て「返答を誤った」となるのかはまるで分からない。

 だから俺に出来る事は、ただ偽らないことだけだった。


「……ごめん、分からない」

「何? 『分からない』?」

「その、信じてもらえるか分からないけど……。気付いたら地獄に居た……たったひとりの姉さんと一緒に」


 そうだ――俺は、気付けばこの地獄に居た。

 他の亡者が当たり前に持っている「生前の記憶」、なぜ自分が地獄に堕ちることになったかの真相を、俺はまるっきり忘却してしまっている。

 何故かは分からない。俺と同じケースの亡者と会ったこともない。

 ただ現実として、俺は最初から地獄に居た。


「現世を見てみたいと思う。でも自分の罪が分からない以上、自分が救われていい身の上なのかも分からないし……それに、今は自分の事を考えている余裕がないんだ」


 その上で、今は俺の事など重要じゃない。

 ――姉さん。記憶を持たない俺に寄り添ってくれた唯一の亡者ひと。彼女が窮地にあるのだから。その為に、俺は怖くとも暗闇を歩き、そして畏れながらもこう言うのだ。


「突然手元に現れた『無私の腕輪』のために、俺の姉さんは争いに巻き込まれた。賊に負われ、今も危機に瀕している。俺は彼女を助けたい。

 報酬、というのもおこがましいけれど……その『腕輪』を取り戻せたなら、必ずきみに差し上げる。その代わり、姉さんを助けて欲しいんだ。きみは、とても強そうだから」


 そうして。

 俺の言葉に耳を傾けてくれた八頭の怪物は……黄金の目をすぅと細めた。


「……奇跡を手放してまで求めるものが、窮地の姉を救う事、だと? 呆れたな、なんたる蒙昧さよ小僧。確かに、魂の受け皿たる地獄で死すれば、その者の魂は完全に消滅する……。

 だが、そも此処は『地獄』であるぞ。亡者がいかに永らえようが臨死の苦しみが続くだけで、永遠に救いなぞ訪れん――否、死こそが唯一の救済であろう。姉を助けたいなどと高尚ぶった貴様の願いは、その実、自己満足という罪でしかない」


 怪物は、その恐ろしい声音に嘲りの感情をたっぷりと乗せていた。


 ……確かに。

 怪物の言う通り、地獄の日々は辛く苦しい。

 悪鬼たちに追われ、囚われ、現世で犯した罪への罰として痛めつけられ続ける毎日。

 その苦痛には何の意味もない。何かを生むことも、何かが進展することもない。それは生前の罪の清算でしかなく、罪を受ける亡者は二度と現世へは戻れないのだから。

 そうして心を病み、奈落へ――この地獄の底へ身投げする人々を、俺は今まで何人も見て来た。

 だから、そんな日々に姉を引き留めることが自己満足だと突き付けられても、否定することはできなくて。


 でも。

 けれど。


「……それでも、俺は姉さんを助けたい。

 だって、彼女の生き死には彼女自身が決めるべきことだ。断じて、望まぬ争いで奪われていいものじゃない」


 例え、彼女がいずれ死を選ぶのだとしても……

 それだけが、空っぽの俺が自信を持って言い切れる唯一の答え。

 そんな俺の返答を、精一杯の眼差しを受けて……怪物は、嘲りに喉を鳴らした。


「――くく。地獄に居ながら生き死にを語るか、亡者よ。半端なる愚劣は醜悪だが、大愚までくると愉快よな。

 その罪深き愚かしさに免じて気まぐれを起こしてやってもよいが……『腕輪』とやらは八つ全てを集めねば意味は無いのだろう? なら、ひとつの場所だけでは足りぬ。小僧、貴様の望みを叶えて欲しくば、我が復活への永遠の奉仕を約束しろ」

「――わかった。それで姉さんを救ってくれるなら、誓って」

「……言ったな。やはり愉快な程に大愚よ、貴様は。我が現世への復活が何を意味するかも知らぬままに頷くとは。いずれ貴様は後悔するぞ? 『あの時ここで死んでおけばよかった』、となぁ」


 嘲笑が降るが、それでも決意は変わらない。俺に差し出せるものはこれ以上無いが故に。

 それをあちらも察したのか。

 怪物は、一転して真剣な声を出した。


「では、我が下僕となる小僧。名乗れ」


 名前……俺の、名前は。


「レイワード。姉さんにはそう呼ばれてる」

「――よかろう」


 俺――レイワードの名乗りを受けて、怪物は鷹揚に頷くと……ぐるん、とその巨体を翻した。

 暗闇にようやく目が慣れたのか――その姿が、変化が見える。怪物の巨大なる八つの首が、ただ一点目掛けて集約、縮小されていく。


 とん、と。現れた白い足が地を踏んだ。

 それは怪物の足ではない。それは、しなやかに伸びる人間の足。

 すらり、腰は細く。胸は膨らみを有し、肩から首までの輪郭も滑らかに。

 ばさり、暗闇さえ跳ね返す銀糸の髪を艶やかに靡かせ。側頭の角すら王冠が如く。

 黄金の瞳、その魔性の色だけをそのままに、は変貌に絶句する俺へと名乗る。


「では聞くがいい亡者よ、そして畏れよ、我がいみなを。

 我が名はアダマリア。地獄の底の女王にして、聖典に記されし八つの大罪が化身である」


 異形の、けれど美しき女の姿を取った怪物――アダマリアは、取引を持ち掛ける悪魔のように、あるいはエスコートを求める姫のように、傲岸かつ優美にその細腕を差し伸べて来て。

 淫靡なる唇、玉を転がすような声は、しかして邪悪に歪んで告げる。


「では、世界の終わりを始めようか――せいぜい片棒を担いで貰うぞ? レイワード」


 その言葉は、声音は、表情は。

 その手を取ると誓ったことを後悔させるには充分なほどに悪辣で。

 けれど――嗚呼、罪なるかな。

 地獄の底の怪物は、暗闇の中に在って尚、吸い込まれるくらいに美しかった――。





     ◆◆◆





 そうして、彼等は邂逅を果たした。

 現世の記憶を持たぬまま地獄に堕ちた少年、レイワード。

 八つの大罪の化身にして世界を滅ぼす巨悪、アダマリア。

 地獄の底にて果たされたその出逢いは、両者の運命を大きく動かすこととなる。


 男女が挑むは『恩寵争奪』、復活の奇跡を奪い合う争い。

 彼等を待つ苦難とは、地獄に堕ちし名だたる大罪人、彼等との血で血を洗う殺し合いの道。

 されど、諸人よ目を伏すなかれ。天上の神よ喝采せよ。

 地獄の底より始まるその旅路は、現世にて語られる愛と希望の物語に似て。

 即ち――。



 ――これは、罪を愛する物語。

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