アキレス(僕)と亀(君)

灰谷 漸

第1話「速すぎる君と、動けない僕」

僕は、もう恋愛なんてできないと思う。

君に惹かれてしまったあの日から、もう二度と、あの頃のような楽しい日々には戻れないと気づいてしまったから。


高校一年生、春。


初めての登校日、いつもの仲間と他愛のない話をしながら教室に入った。

新しいクラス。これから三年間、青春を共にするはずの仲間たち。

けれど彼らの目は冷たかった。

はしゃいでいるのは、僕たちだけだった。しかも、遅れて入ってきたせいで視線が集中する。

空気の温度が数度下がったような気がした。


——やってしまった。


僕の「高校デビュー」は、見事に失敗した。

ヤンチャそうな奴ら、そんなレッテルを貼られるには十分だった。

「お前のせいで、印象悪くなったやんけ」と、軽口混じりに友達の背中を叩き、自分の席へ向かう。

教室の左後ろ。運がいいのか悪いのか、僕たち3人はその一角にまとめられていた。

着席しても、空気の読めない友人は相変わらず喋りかけてくる。

その声が、教室の空気の中で少し浮いていた。


そんな微妙な空気が漂う中、担任の松村先生が教室に入ってきた。淡々と担任の挨拶が始まり、今後の予定などが告げられる。特に大きな盛り上がりもなく、流れるように時間は過ぎていった。


そして、僕にとって最も嫌なイベントがやってきた。

——自己紹介。

人見知りの僕にとって、避けられるなら全力で避けたいイベント、堂々の第一位である。高校デビューがすでに失敗したかもしれない今、この自己紹介まで滑ったら、もう本当に取り返しがつかない。緊張で手のひらにじわりと汗が滲んだ。


一人、また一人と自己紹介が進んでいく。みんな意外と真面目で、話の内容もそれなりに整っていて、なんだか時間が早く感じる。十二人目ぐらいだっただろうか、ふと、とても可愛らしい声の女の子が話し始めた。思わず顔を上げると、見た目もやっぱり可愛かった。


「可愛い子やな」――そう思ったが、それ以上の感情はなかった。ただ、どんどん自分の番が近づいてくるのが嫌で仕方がなかった。


そして、ついにその時が来た。

「山田 悟です。人見知りです。小説を読むのが好きなので、本を読んでいるときは話しかけないでください。イラつくので。三年間よろしくお願いいたします。」


完璧だ。


そう思った。自分のキャラも伝わったし、必要な情報も簡潔に話した。だが、教室に広がったのは、なぜか冷たい空気だった。視線も、どこかよそよそしい。

「え……?真面目すぎたか……?」

一瞬の不安がよぎったが、すぐに気にしないことにした。


昼休み。

自分の席でぼんやりと文庫本を開くふりをした。実際には、一文字も頭に入ってこなかった。自己紹介での冷たい空気が、ずっと胸に引っかかっていたからだ。

「悟くんだっけ?」


ふいに横から声がした。顔を上げると、あの“可愛い声”の女の子が立っていた。

近くで見ると、柔らかい雰囲気の中にも芯がありそうな瞳をしている。


「本、好きなんだね。何読んでるの?」


「あ、いや……ただのミステリーで……」

急に話しかけられて動揺してしまった。普段なら絶対にうまく話せない相手なのに、なぜ彼女は僕に声をかけてきたのだろう。しかも、あんな自己紹介のあとに。


「私も読むの好き。今は伊坂幸太郎読んでるよ」


「……へぇ」


気の利いた返しなんて思いつかない。でも彼女は気まずさを感じる様子もなく、にこりと笑って言った。


「さっきの自己紹介、正直ちょっと笑っちゃった。でも、嫌いじゃないよ。むしろ、

印象に残った」


そう言って、ふわりと僕の机の横に腰かけた。


「私は橘ひかり。なんか、面白そうだなって思ったの。よろしくね、悟くん」


面白そう、か。

初対面でそんなふうに思われたのは初めてだった。僕は、少しだけ体の力を抜いて、本のページを閉じた。


「……うん。よろしく」


このときはまだ知らなかった。

彼女との出会いが、僕の高校生活を大きく変えることになるなんて。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る