第四十話
扉を叩く小さな音が、夢の余韻を無造作に断ち切った。
――まずい、寝坊したか。
仕事に遅れる。説教は勘弁だ。
そこまで考えて、自分の思考に違和感を覚える。
……寝ぼけていた。
前世の感覚がまだ抜けていないのだろう。
自然に目が覚める前に起こされるのは、前世以来のことだから。
「……なんだ」
寝起きの掠れた声が喉から漏れる。
きっと相手には、そのまま伝わってしまったはずだ。
「……セリス様がお呼びでございます」
ドア越しに響いたのは、使用人の控えめな声。
言葉を理解するのに数拍かかる。
セリスが俺に何の用だろうか。
それにしても早いな。
思わず壁の時計に目をやれば、針は八時を少し過ぎたところを指していた。
普段なら、まだ布団に身を埋めている頃合いだ。
待たせるのもさすがに気が引ける。
ため息をひとつ落とし、布団から身体を起こす。
寝間着のまま足を通し、乱れた髪を手で押さえただけの姿で扉を開けた。
廊下の向こう、軽装に身を包んだセリスが姿勢正しく立っていた。
背筋を伸ばしたままこちらを見つめ、わずかに目を丸くする。
予想外にだらしない姿で現れた俺に、驚いたのだろう。
「……おはようございます、ミズキ様」
彼女の声は澄んでいて、朝の空気をより鮮明に意識させる。
一方の俺は、まだ半分夢の中にいるような気分のままだ。
「ああ」
「急ぎの用事か?」
この様な時間に起こされたのだ。
何かあるのだろう。
こんな時間に叩き起こされたのだ。
よほどの用件があるのだろう、と当然のように思う。
だがセリスは、こちらの予想を裏切るように、少し困ったような顔をした。
頬をわずかに染め、視線を彷徨わせる。
その仕草から、言葉を選んでいるのが手に取るようにわかる。
「……急ぎの用ではないのですが」
「本日はお休みを頂いておりまして……もしよろしければ、一日、ご一緒させていただければと」
小さな声。
だが、その声音には迷いよりも覚悟が色濃く宿っていた。
頬を染め、姿勢を正したまま、俺を見つめている。
意を決して吐き出したのだと、誰の目にも明らかだった。
一瞬、言葉の意味を飲み込めなかった。
我が家に仕える騎士が、当主の息子を「遊びに誘う」など――常識的にはあり得ないことだ。
だが、その無茶を口にできるほどに、彼女が俺を信頼している――そう考えると、不思議と胸の奥が温かくなる。
「騎士に誘われるとはな」
思わず漏れた言葉は、驚き半分、感心半分だった。
「申し訳ございません」
セリスは自らの行動が規範を外れていることを重々承知しているのだろう。
だからこその小さな謝罪。
だが、その真面目さが余計に愛おしく思えてしまう。
「いや、嬉しかったぞ」
言葉にした瞬間、セリスの瞳がわずかに和らぐ。
「……とはいえ、少し早い」
時間に関してだけは苦言を呈しておく。
俺の言葉に、セリスは一瞬、申し訳なさそうに目を伏せる。
けれどすぐに顔を上げ、わずかに微笑む。
どうやら時間のことは理解しているようだ
「そ、そうですね……少し早かったかもしれません」
小さな声に、彼女の緊張と期待が混じっている。
俺に早く会いたかったのだろうか。
いや、自意識過剰すぎか。
「悪いが支度の時間をくれ」
そう告げると、セリスは頷き、軽くお辞儀をした。
廊下で立たせておくのは申し訳ない。
「入っていいぞ」
そう言うとセリスは驚き困っている。
「……入っても、いいのでしょうか……?」
セリスは少し戸惑いながら、部屋の扉の前で立ち止まる。
当主の息子の私室に一歩踏み込むのは緊張するのだろう。
「俺が許可してるんだ。いいに決まってるだろ」
なかなか動こうとしない彼女の手を取り、無理やり部屋に引き入れる。
セリスは抵抗せず、ゆっくりと部屋に足を踏み入れる。
「……失礼いたします」
「椅子に座って待っていろ」
そう言い、俺は歯を磨き、髪を整え、寝間着のまま朝の支度を進める。
服を着替えようとしたとき、鏡越しに、セリスの視線を感じる。
振り返ると、彼女は少し目線を泳がせつつ、こちらを盗み見ていた。
俺はセリスが座っている椅子の隣まで歩いていく。
「そんなに見たいなら……お前が脱がせてくれよ」
茶化すように呟くと、セリスは一瞬真っ赤になり、視線を逸らす。
しかし、その反応がどこか可愛らしく、思わず微笑みが漏れる。
俺はそのまま、心の中で少しだけこの時間を楽しむ。
服の着替えは結局、自分で済ませた。
しかし、セリスの視線はしっかりと感じ取れた。
振り返ると、彼女は頬をわずかに赤らめ、目線を逸らしながらもこちらを観察していた。
「……それで、今日は何をしたいんだ?」
声をかけると、セリスは一瞬目を瞬かせ、少し戸惑った表情を浮かべる。
どうやら、具体的に何をするかまでは考えていないようだ。
その光景を見ながら、頭によぎるの走り込みや鍛錬について。
今日はする時間がないだろうな。
昨日、素直に鍛錬していれば……少し悔やまれる。
だが、こうして目の前にいるセリスとの時間も、悪くない。
昨日サボったことを悔やむ気持ちと、少しの期待が胸の中で入り混じる。
「二人で考えるか」
軽く笑いながら、声を掛ける。
セリスも少し安堵したように微笑み、視線をこちらに戻してきた。
「……街にでも出るか?」
俺が問いかけると、セリスは少し微笑みながら軽く頷く。
「もちろん、構いません」
その声は控えめだが、意志の強さも感じられる。
それに、柔らかい響きが伴っているため、聞いていてこちらまで安心する気分になる。
「私の家も街にあるので……疲れたら休む場所もあります」
小さな付け加えに、セリスの気遣いが垣間見える。
街に出るといっても、無理はさせない――そんな思いやりが含まれているのだろう。
「そうか、なら行くか」
「お前朝食は食ったのか?」
「いえ、ミズキ様と食べたかったので」
少し照れながらも、真っすぐに俺を見て答える。
控えめな言い方なのに、気持ちはしっかりと伝わってくる。
「なら、街で食べ歩くか」
街での一日、まだ何をするかは決まっていない。
まずは屋台等を回ってみても面白そうだ。
「それは……楽しみです」
頬をわずかに赤く染めた彼女の表情に、こちらも自然と笑みが漏れる。
俺とセリスは、部屋を出て屋敷の廊下を進み、やがて門前へと辿り着いた。
門を警備している騎士たちの一人が、少し楽しげに声をかけてくる。
「ミズキ様、おはようございます」
「セリスさんとお出かけですか?」
俺は片手を上げ挨拶を済ませつつ、少し冗談めかして返す。
「ああ、早い時間に誘われた。まだ眠い」
騎士はくすくすと笑い、楽しそうに応じる。
「まったく、セリスさんにはきつく言っておきますね」
「そうしてくれ」
俺と騎士の軽口に、セリスは頬を赤らめ、目を少し逸らしながらも黙って耳を傾けている。
その様子は可愛らしく、つい俺も笑みを漏らしてしまう。
「あの、馬を用意してください」
セリスが小さな声で騎士に告げると、彼女はすぐに厩舎へ駆け出す。
騎士たちは慌ただしくも無駄のない動作で馬を整える。
馬を準備し終えた騎士はセリスに近づき二人で小声で話している。
まあ、内容は聞かなくてもわかる。
俺との関係を茶化しているのだろう。
騎士と話し終えたセリスは、少し落ち着かない様子で俺の隣に戻る。
「準備が整ったようです」
俺たちは馬に跨りる。
「皆さん、ありがとうございます」
「助かった、じゃあな」
騎士たちに礼を告げ、馬は屋敷の門を越えて街へ向かって駆け出す。
朝の光が風に揺れるセリスの髪を照らし、その柔らかさを際立たせる。
馬を駆りながら、セリスとは途切れることなく会話を続けた。
些細なことから冗談まで、言葉が自然に交わされ、時間はあっという間に過ぎていく。
風を切る音と馬の蹄のリズムが、二人の笑い声に溶け込んで心地よい。
やがて馬を預け、街の中へと歩を進める。
人々が行き交う賑やかな通りで、ふと隣を見ると、セリスの姿が新鮮に映った。
騎士の身だしなみから解放された彼女は、街の風景に自然に溶け込み、どこか柔らかく親しみやすい雰囲気を放っている。
初めて見る私服は、控えめながらも可愛らしく、彼女の素直な性格を感じさせる。
思わず声が出る。
「……セリス、その服、似合ってるな」
セリスは少し驚いたように目を瞬かせ、頬を赤く染める。
恥ずかしそうに目を逸らしながらも、どこか嬉しそうに笑みを浮かべる。
「ありがとうございます」
そう言いながら、セリスは一歩、俺との距離を詰めてくる。
手の甲に彼女の指先がそっと触れ、くすぐったい感覚が走る。
「腹が減った。屋台を探すか」
俺がそう切り出すと、セリスは小さく間を置き、視線を逸らしながら答えた。
「……はい」
少し間を置いた、含みを帯びた返事。
言いたいことは察している――手を繋ぎたいのだろう。
歩くたび、指先が俺の手にかすかに触れる。
偶然を装っているようで、何度も繰り返されれば意図は明らかだ。
思わず苦笑し、俺は自らの手をそっとセリスの方へ寄せる。
彼女は一瞬だけ俺の顔を見た後、躊躇いながらも、その手をしっかりと握り締めてきた。
「……行きましょう」
セリスは俯きながらも、小さく呟いた。
俺の手を放す気配はなく、むしろ指を絡めてくる。
「そうだな」
手を繋いだまましばらく歩を進めると、通りの先にいくつもの屋台が並んでいるのが見えてきた。
漂ってくる香ばしい匂いに、思わず鼻をくすぐられる。
肉を焼く音と、甘い蜜を煮詰めたような香り。
「さて……何を食うか」
目移りするほどの屋台を見渡していると目を引く串焼きの屋台がある。
香ばしい煙が立ちのぼり、脂の滴る音が食欲を誘う。
「あそこ、旨そうだ」
「私も気になっていました」
俺に合わせてくれたのか、本当に思っていたのかは分からない。
それでも俺たちは一緒に買いに行く。
店主に声をかけて肉の串を二本買う。
俺を貴族とは分からなかったのだろう。
焦りや恐れは感じられなかった。
甚平のおかげだろうか。
気を使われないのは、こちらも気を使わなくていいから楽だ。
熱々の串を受け取り、セリスに一本渡すと、彼女は嬉しそうに小さく頭を下げる。
かじりついた瞬間、肉汁が弾け、香辛料の風味が広がった。
「旨いな」
「……はい、とても」
屋台の喧騒に紛れながら、俺たちは並んで歩き、手にした串を食べ進めていった。
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