第二十五話
何もない、予定の入っていない日は、随分久しぶりに感じる。
まだ、前世の記憶を取り戻してから一週間も経っていないというのに、もう数週間は過ぎたような気さえする。
それほどに、色濃い日々だったのだろう。
朝食も済ませた後、ベッドに転がり込むのは気持ちがいい。
だが、前世と違って携帯電話もなければ、テレビもない。
この世界の「暇」は、想像以上に手強い。
何もせずに横たわっていれば、どうしても思考に沈むしかなくなる。
……何かするか。
結局のところ、人間の行動力というのは、退屈を避けるための本能なのかもしれない。
いや、そんなわけないか。
ベッドを抜け出し、軽く体を伸ばす。
今の俺に暇を潰す手段といえば何があるだろうか。
まず思いつくのは、母に今までのことを謝ること。
他には、本を読む。
アルトと少し話してみる。
走り込みで体を鍛える、などだろうか。
選択肢が少なすぎる気もするが――
前世の休日なんて、結局スマホを見るかゲームをするかの二択しかなかったのだ。
そう考えれば、大して変わらないのかもしれない。
あまり気乗りしないが、母に謝りに行くか。
気まずさはあるが、母にこれ以上、気を使わせたくない。
どのみち蜜レモンを持ち込むとき謝ろうと思っていたのだ。
厨房へ向かう廊下を歩いていると、使用人たちの視線をひしひしと感じた。
一人、また一人とこちらに目をやり、しかし目が合うとそっと逸らしていく。
一昨日のことが、広まっているのだろう。
母と手を繋いで屋敷を歩いたあの出来事。
普段の俺を知っている者からすれば、あれは相当な異変に見えたに違いない。
この年で、母と手を繋ぐのは少し気持ち悪いかもしれない。
それは俺も母もどちらもだがな。
厨房の前で立ち止まり、小さく息をつく。
そして、扉の前で声をかけた。
「入るぞ」
声をかけて扉を開けると、厨房の奥から数人の使用人がこちらを振り返った。
「ミズキ様、おはようございます」
扉近くで作業をしていた料理人が、慣れた調子で挨拶を返す。
昨日、蜜レモンの瓶を取りに来た時も同じだったが、俺が厨房に入っても緊張の色はない。
一昨日のあの出来事で、少しは俺の存在に慣れてくれたのだろうか。
「ああ、蜜レモンを取りに来た」
俺は手短に用件を告げた。
「小分けにされていたものですね。すぐにお取りします」
料理人が軽く会釈し、慣れた足取りで厨房の奥へと進んでいく。
……自分で取りに行っても良かったんだがな。
気を使わせてしまったか。
奥の棚で魔冷箱の扉が開かれる音がする。
中から取り出された小瓶は、ひやりとした冷気をまといながら姿を現した。
淡い蜜に漬かったレモンの輪切りが、瓶の中できらきらと光を反射している。
ガラスの表面にうっすらと曇った白い霧が、より一層その涼やかさを際立たせていた。
「お待たせしました」
差し出された小さな瓶を受け取る。
掌に触れた瞬間、肌の熱を奪うような冷たさが伝わってきた。
「悪いな」
礼を述べて、踵を返す。
母の部屋へと向かって廊下を歩き出す。
……どのように謝るべきか。
言葉を尽くしても、過去の態度が帳消しになるわけではない。
それでも、伝えなければならない。
そして、謝った後は、政略結婚についても話さなければ。
かつての俺は、女性嫌いを理由にその手の話をすべて拒んできたが、今は違う。
貴族の男性としての役割は果たさないとな。
少しでも、母に。そしてこの家に、報いなければならない。
俺にはそのぐらいの価値しか残っていない。
とはいえ、俺と結婚してくれる奴なんているのだろうか。
貴族学校でも嫌われていたからな。
苦笑いが、自然と口元に浮かぶ。
……セリスかリーネってどこかの騎士貴族の家系だったりしないかな。
確か二人とも家名持ってたよな。
もしセリスやリーネがどこかの騎士貴族の家系で、俺と結びつくことで家の名を上げられるなら、無理やり縁談を進められるかもしれない。
いや、二人に俺の罪滅ぼしに付き合ってもらう訳にはいかないか。
……それに、結婚の相手を決めるのは、あくまで家だ。
俺の希望など、どのみち通るとは限らない。
母の部屋の前に立ち、しばし扉を見つめる。
胸の奥が、僅かにざわついていた。
結局、どう言葉を紡ぐべきか、答えはまだ出ていない。
俺は扉の前で一つ息を吐き、背筋を正す。
指先にわずかに力を込め、拳を作る。
そして、控えめに――だが迷いなく、三度ノックを打った。
「……俺だ」
返事が返ってくるまでの数秒が、妙に長く感じられる。
心臓の鼓動が、その沈黙を無駄に強調してくる。
やがて、内側から柔らかな声が返ってきた。
「ええ、どうぞ」
静かに扉を押し開けると、涼やかな空気がひやりと肌を撫でた。
静けさの中に、微かに香る爽やかな匂いが漂っていた。
母はいつもの椅子に腰掛けており、俺の顔を見て微笑んだ。
「また会いに来てくれたの?嬉しいわ」
会いに来た――そう言っていいのだろうか。
俺はただ、謝罪を伝えに来ただけだ。
それでも、その言葉を否定するのは、どこか躊躇われた。
何も言わず、静かに室内へと足を進める。
手には、まだ冷気を残す蜜レモンの瓶。
母の前まで来たところで、俺は立ち止まり、瓶を差し出した。
「これを……持ってきた。冷えてる」
この部屋に来るための口実だがな。
「ふふ、楽しみにしてたの」
「そうか」
母の手が瓶を受け取る。
その所作が、妙にゆっくりで、穏やかに感じる。
「紅茶を入れるわ」
「……自分で出来るのか?」
貴族の家では、紅茶の支度は基本的に使用人の役目だ。
少なくとも俺の知る限り、母が手ずから茶を淹れるところなど、見た記憶がない。
「あまり上手じゃないけどね」
言いながら、母は立ち上がり、棚の方へと歩き出す。
慣れた手つきとは言い難いが、それでも迷いはない。
一連の動作の中に、誰にも見せない日々の習慣のようなものが垣間見えた。
その背を見て、ふと思う。
母も、俺の知らない時間を生きてきたのだと。
俺が遠ざけていたあいだに、母はきっと――俺のいない日常を、積み重ねていたのだろう。
俺は二人掛けのソファーに腰を下ろし紅茶を待つ。
「どうぞ」
母がそっとカップを差し出す。
その手は相変わらず細く、繊細で――けれど確かな温かさを持っている。
俺の前にカップを置いたあと、母は自分の紅茶を持って、俺の隣へと腰を下ろした。
正面でも、側面の椅子でもなく、すぐ隣、肩が触れそうな距離。
カップを手に取り、慎重に口をつける。
だが、渋みの強いその味に、眉が自然と寄る。
昔から変わらず紅茶は好きになれない。
「レモン、食べる?」
俺の顔を見て察したのだろう。
母は微笑を浮かべながら、蜜レモンの瓶の蓋を外す。
その瞬間、ほのかな蜜の香りが空気に溶けるように漂い、部屋の温度が少し和らいだ気がした。
「貰う」
短く返し、フォークを手に取る。
柔らかな果肉に刃先を差し入れ、一切れを口に運ぶ。
舌の上で転がした瞬間、まろやかな甘みと、芯に走るような鋭い酸味が広がる。
渋みの余韻を拭い去るように、その風味が口内を塗り替えていった。
母は隣で、少しだけこちらに身体を向けながら、カップを手にしていた。
その横顔には、どこか穏やかな影が差している。
けれど、それが優しさの表れなのか、長く続いた疲れなのかは、分からなかった。
沈黙がしばらく流れる。
だが、それは気まずいものではなく、どこか落ち着いた静けさだった。
俺は視線を落とし、手元の蜜レモンの瓶に目をやる。
もう一切れ、フォークで刺して口に運びながら、ゆっくりと口を開いた。
「……母さん」
その一言で、母はふっと微笑んだ。
まるで、ただ名を呼ばれただけで満たされるかのように。
柔らかな笑みがその頬に浮かび、視線は変わらず穏やかなままだ。
「ふふ、どうしたの?」
上機嫌な声音が、隣からゆるやかに響く。
紅茶を口に運ぶこともせず、ただ、俺の方を見ている気配だけが伝わってくる。
「謝らないといけないことがある」
その言葉に、わずかに母の手がぴたりと止まった。
けれど動揺の色は見えない。
すぐに何かを言うでもなく、ただ静かにこちらを見つめている。
促すでもなく、詮索するでもなく――ただ、待ってくれていた。
「今まで……ひどい態度を取ってきた。距離を置いて、顔を合わせることも避けて。暴言も吐いた……そんなこともあったな」
言葉にするたびに、喉の奥が重くなる。
吐き出すたびに、胸のどこかが軋んだ。
「俺が間違っていたと……今になって、思う」
目を伏せる。
逃げるつもりはなかったが、顔を上げて向き合うには、まだ少し勇気が足りなかった。
「ごめん」
たった一言に込めたものは、何年分の後悔だっただろうか。
母はしばらく黙っていた。
紅茶の湯気が、言葉の代わりにゆっくりと空気を揺らしている。
その沈黙が責めるものではないことを、今の俺は理解できる。
けれど、胸の奥がじわじわと締めつけられるようだった。
「……そう思ってくれていたのね」
ようやく落ちた声は、驚くほど穏やかで――どこか遠くを見ているようだった。
「確かに、傷ついたこともあったわ」
言葉のひとつひとつが、丁寧に紡がれていく。
微笑みを浮かべながらも、母の瞳はほんの少し、潤んでいた。
それは、思い出に滲む涙か、それとも赦しの証か。
「ずっと……話せなくて、寂しかった」
その言葉は、胸に突き刺さるように響いた。
母はその間も、何も言わずに、ただ待っていてくれたのだ。
「それでも、あなたが部屋に来てくれた時、嬉しかった」
母の声に、静かな温もりが宿る。
それは、どこまでも無償のものだった。
「一緒に来るかと……誘ってくれた時も、私には十分すぎるほどだったわ」
「勇気を出してくれたのが、伝わってきたもの」
その言葉に、胸がじんと熱くなる。
覚悟を決めて差し出した一歩が、ちゃんと伝わっていたのだと思えるだけで、心が救われる。
「あなたが……こうして歩み寄ってきてくれて……」
「言葉にしてくれて……それだけで十分よ」
その手が、そっと俺の手に重なる。
細く、やわらかく、どこまでもあたたかい。
――この手を、俺はどれだけのあいだ、拒み続けていたのだろうか。
溢れだしそうな感情を、俺は必死で押しとどめた。
今すぐにでも、涙を流してしまいたい。
ただ、それでは足りない気がした。
この想いは、涙じゃなく、言葉で伝えたい。
視線を落としたまま、かすかに息を吸う。
そんな俺の気持ちを、すべて見透かしたように、母は柔らかく言った。
「少し、ゆっくりしましょう」
それは、俺の言葉を待ってくれるということだった。
無理に問いただすでもなく、ただそばにいてくれるということだった。
部屋には、蜜レモンのほのかな香りと、紅茶の冷めゆく音だけがあった。
肩が触れるほどの距離で、母は隣に座っている。
ふと、ソファの縁に置かれたカップに目をやると、すでに紅茶はぬるくなっていた。
「母さん、許してくれてありがとう」
口を開いたその瞬間、胸の奥に張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ。
意外にも、声は震えていなかった。
けれどそれは、感情がないからではない。
母は、静かに目を細めて、笑った。
「ふふ……謝らなくても良かったのよ?」
母は微笑む。
「言っておきたかったんだ」
「きっと、言わないと死ぬまで後悔する」
そう呟くと、母はそっと俺の手をもう一度包んだ。
「あなたの気持ちは、ちゃんと伝わってきてるわ」
「だからね……大丈夫よ」
その言葉は、赦しでも、肯定でもなく――ただ、ひとりの母としての、無条件の受容だった。
俺はその温もりを、ぎゅっと握り返した。
しばしの沈黙が、穏やかに流れていった。
母は俺の手を包んだまま、目を閉じていた。
安らいでいるようにも、まるで心の中の何かをじっと味わうように目を閉じている。
やがて、俺は静かに口を開いた。
「……母さん、俺に見合いの依頼は来ているのか?」
今日話そうと思っていたことだ。
母は一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「……ええ。いくつか、ね」
「でも、あなたが嫌がるだろうと思って、全部断っていたのよ」
どうやら、貴族学校で嫌われていても見合いの依頼は来るらしい。
俺ではなくネフェリウス家が目当てだとは分かるがな。
「今後は受けようと思う」
その言葉を告げると、母の眉がきゅっと寄り、わずかに心配そうな影が浮かんだ。
薄暗い部屋の中、彼女の瞳は一瞬揺らいだが、すぐに静かな強さを取り戻すように見えた。
「……無理はしなくていいのよ?」
その声は柔らかく、しかしどこか切実さが混じっていた。
俺は視線を少し伏せながらも、迷いなく答えた。
「俺は、母さんに、そしてネフェリウス家に恩を返したい」
母はその言葉を聞くと、しばらく静かに目を閉じた。
そしてゆっくりと首を振りながら、低く優しい声で言った。
「政略結婚なんて、あなたが本当に望んでいることなの?」
その問いかけは、まるで俺の心を映す鏡のように感じられた。
彼女の瞳は暖かな灯火のように、真っ直ぐに俺を見据え、答えを待っていた。
確かに、この屋敷を離れることは寂しい。。
仲良くなって奴らがいる。
ただ――
「俺が家のために出来ることは、それぐらいしかない」
そう答えた俺に、母は静かに息を吸い込み、続けた。
「家のためにあなたが犠牲になる必要はないわ」
その言葉は、まるで柔らかな絹布のように、俺の心にそっと触れてきた。
だが同時に、頭に浮かんだ疑問を口にする。
「今まで、俺が怪我しないように使用人に言っていただろ」
「政略結婚の為じゃないなら、あれは何だ?」
母は微笑みながら少し照れくさそうに目を伏せる。
そして、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたが、気に入った家に婿入りしたいと思ったときに断られないようによ」
その一言が、胸を突き刺す。
俺はずっと、政略結婚という名の運命に押し流される駒だと信じていた。
けれど、それは母の深い愛情の上で守られていたのだ。
俺の知らぬ間に積み重ねられてきた母の気遣いと願い。
その重みに気づくたび、足元がふわりと揺れる。
「……そうだったのか」
俺はぽつりと呟き、視線を伏せたまま指先をゆっくりと動かす。
母の手の温もりが、伝わってくる。
「だから、政略結婚なんて考えなくていいのよ?」
母の声は静かで優しく、けれど確かな強さを含んでいた。
「私は、あなたが近くにいてくれるだけで嬉しいから」
母の言葉が静かに部屋の空気を満たし、胸の奥にじわりと染み込んでいく。
彼女がどれほど俺のことを大切に思い、気遣い続けてくれていたか、その深さが痛いほど伝わってきた。
俺も、母のそばにいたい。
だけど、そんな感情を素直に口にするのは照れくさくて、言葉にできない。
「……そうか」
絞り出すように呟いた言葉は、無骨でつかみどころがない。
伝えたい思いは溢れているのに、どうしても喉の奥で詰まってしまう。
そんな俺の沈黙を破るように、母が柔らかな声で問いかけた。
「ミズキ、久しぶりに抱いてもいい?」
その一言は、まるで心の壁を優しく溶かすようだった。
母は両手を少し広げて俺を待っている.
誰もいないと分かっていても、自然と視線が窓や扉へと向かう。
窓の外には誰もいない。扉も空いていない。
母は俺を見つめ微笑んでいる。
少し恥ずかしく思いながらも、俺はゆっくりと身を寄せる。
まるで壊れものに触れるように、そっと腕を回される。
しばらくの沈黙。
ただ、寄り添い、息を整え、心を静める時間。
窓の外からは風が木々を揺らす音が微かに聞こえ、部屋の空気を優しく撫でていく。
少し暑い。
季節による気温の影響だろうか。
それとも――この状況が、あまりに照れくさくて心地いいからか。
肌が汗ばむ。
「……母さん、そろそろ勘弁してくれ」
そう言いながら、俺はわずかに体をよじった。
すると、母はようやく腕をほどいてくれたが、その顔はほんのりと赤い。
俺もきっと、同じような顔をしているのだろう。
「……少し、暑いわね」
母がぽつりと呟いた。
困ったような、どこか名残惜しげな微笑みを浮かべながら、手のひらでそっと髪を払う。
「大きくなったのね」
その一言は、母の視線とともに、まっすぐ俺に注がれる。
優しさと寂しさ、そして誇らしさが滲む声音だった。
「そりゃな」
俺がそう答えると、母はしばらくじっとこちらを見つめていた。
懐かしさと、愛しさと、ほんの少しの寂しさが混じる眼差しだった。
少しだけ身を引くようにして、ソファの背にもたれる。
母に話したいことはすべて伝え終えた。
想定していたものと、かなり違う結果になったがな。
ゆっくりと立ち上がると、母の声が聞こえる。
「もう行くの?」
その声は穏やかで、どこか寂しさを含んでいるように感じた。
「今後はいつでも会えるだろ」
俺の言葉に、母の表情に一瞬、花が咲いたように明るくなった。
「ふふ、そうね」
「次は私があなたの部屋に行ってもいい?」
声の調子は軽い提案のようだったが、その中に含まれた嬉しさは隠しきれていなかった。
どこか照れを帯びたような仕草で、母は視線を向けてくる。
俺は自然と笑みを返す。
「ああ、相手してやるよ」
視線がしばらく絡み合い、母の口元にさっと笑みが浮かんだ。
その笑顔を背に受けながら、俺は扉に手をかけた。
「じゃあな」
「ええ」
静かな部屋に、温かい余韻だけが残った。
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