第十九話
「そろそろ片付けるか」
俺がそう言うと、母は静かに頷いた。
やわらかな笑みを残したまま、まるで名残惜しむようにレモンの瓶へと視線を落とす。
そのとき、背後から静かな声が届いた。
「お片付けでしたら、我々で致します」
厨房の奥にいた料理人の一人が、こちらへと一歩進み出ていた。
声は控えめながらも、明瞭で、言葉の端々には礼節がにじむ。
「気にするな」
俺は少しだけ首を振りながら答える。
自分で使ったものくらいは、自分で片付けるのが当然だ。
それは前世からずっと身についてきた習慣で、今もなお、根強く心に残っている。
それに、彼らの仕事を増やすのは、申し訳ない。
「ミズキ、任せましょう?」
母が、隣から語りかけてくる。
「彼らにはね、道具を扱うことへの誇りがあるのよ。どれだけ些細な後片付けでも、それは彼らにとって仕事のうちなの」
「そういう誇りを、私たちが“気遣い”の名で奪ってしまうのは、かえって失礼になることもあるわ」
母の言葉に、思わず俺は手を止めた。
そうか。
今回使った包丁だって、この後、きっと丁寧に手入れをしてから片付けるのだろう。
「……そうか、悪いな」
俺の言葉に応えるように、料理人はゆっくりとこちらに近づき、俺たちが使っていた器具を丁寧に洗い始めた。
邪魔になる前に、用事を済ませておこう。
俺は蜜レモンの瓶を手に取り、厨房の隅に置かれた魔冷箱へと向かう。
箱を開けると、冷気がふわりと辺りを満たし、青白い神秘的な光が内部からほのかに漏れている。
その光は、ただの冷蔵庫とは違う、異世界の技術の証のように思えた。
蜜レモンを静かに中にしまい込む。
ひんやりとした冷気が果実の甘酸っぱい香りを包み込み、柔らかな静寂が広がる。
「明日まで寝かしておくか」
母が隣で蜜をスプーンですくい、小さな容器に移している。
部屋で自分が食べるための取り分けだろう。
「邪魔したな」
「今日はありがとう」
俺と母は声を揃えて料理人たちに礼を告げ、静かに厨房の扉を後にした。
「少し疲れたな」
ぽつりと漏らすと、隣で母が「そうね」と優しく相づちを打った。
「俺は部屋に戻って、少し寝る。じゃあな」
そう言って歩き出そうとしたその瞬間、ふいに手首を掴まれた。
細く白い指が、俺の手を静かに止める。
振り向くと、母は変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
手首を掴まれている理由は分かっている。
このまま部屋に戻ってしまおうかと、少し考えただけだ。
俺は小さくため息をつきながら、観念して母の横に並ぶ。
「……はあ、覚えてるよ」
母は満足げに目を細めると、俺の手を軽く引いて歩き出した。
向かう先は母の部屋──さっき交わした、あの約束を果たすためだろう。
繋がれた手はやわらかく、けれど意志はしっかりとしていて、拒む理由がない。
俺はそのまま黙って歩調を合わせた。
それにしても、今日一日だけで、一体何人の使用人に、母と手をつないで歩く姿を目撃されたことか。
きっと今ごろ、屋敷のあちこちで俺の話題が飛び交っているに違いない。
勘弁してくれ。
母の部屋の前に着いたところで、ようやく俺の手は解放された。
先に扉を開けて中へ入った母が、振り返って手招きをする。
そのまま、誘われるようにして部屋へと足を踏み入れた。
「……あの椅子でいいかしら?」
母が視線を向けたのは、部屋の奥にある二人掛けの椅子だった。
……いや、すぐ隣には三人掛けのソファもある。
わざわざ窮屈な思いをしなくても済むだろう。
「隣のでいいだろ」
俺はごく当たり前のこととしてそう言った。
「そう、ね……」
母の返事は、どこか悲しそうで、どこか不服そうでもある。
そんなに俺の隣に座りたかったのか。
リサやエリルといい、俺の隣は人気らしい。
まあ、下心と親愛との違いはあるが。
そんなことを考えながら、三人掛けのソファの端に腰を下ろす。
少し間を置いて──ふわりと、柔らかな気配が隣に降りた。
何も言わず、静かに、当たり前のように。
母が俺の隣に座っていた。
やっぱり、隣がよかったらしい。
周りに誰もいない。視線もない。
許しやるか、母だし。
「それで、やるんだろ?」
俺がそう言うと、母はわずかに目を見開いた。
ほんの一瞬、動きが止まり――それから、はっとしたように視線を逸らす。
その顔には、なぜか恥じらいが浮かんでいた。
「……ええ」
返ってきた返事は、どこかぎこちなく、呼吸の間に滲むような声だった。
さっきまで平気そうだったのに何を今更、恥ずかしそうにしているんだ。
だが、母は何も説明しない。
ただ机の上に置かれた容器へと手を伸ばした。
中にたっぷりと入った黄金色の蜜が、柔らかな光を受けて静かに揺れる。
スプーンを添え、母はそれをそっと俺の手元へ差し出した。
その指先はわずかに震えている。
まるで何かを誤魔化すように、視線を蜜の表面に落としたまま。
「こ、これのことよね?」
間の悪い確認だった。言葉の端に、説明のつかない焦りが滲んでいる。
「それ以外ないだろ」
俺は当然とばかりに返す。
だが、その瞬間、母――シアリスの肩がわずかに落ちるのを見逃さなかった。
息をつくように、ふ、と表情が緩む。
安心、そして――少しの、落胆。
ほんのわずかな違和感。
会話が、かみ合っていなかったのだろうか。
そう思いながらも、黙ってスプーンを受け取る。
互いに多くを語らないまま、蜜の甘い香りだけが、空気に広がっていく。
「俺が毒見してやろうか?」
冗談めかして口にしたが、そこには少しだけ本気も混ざっていた。
俺が一口でも食べてみせれば、母の中にある微かな嫌悪感も和らぐかもしれない。
「お願いしてもいいかしら」
母の返事を聞き、容器を開け、スプーンで蜜の表面をそっと掬った。
とろりとした黄金色の液体が、滑らかな糸を引きながら器の縁を離れる。
それをそのまま口に運ぶ。
甘すぎず、しかし舌に残る濃厚な香りと奥行きのある甘み。
「うまいぞ」
横から、じっとした視線を感じる。
ふと視線を向ければ、母がこちらを見ていた。
細めた目の奥に、緊張と、安堵が揺れている。
「そう……それならよかったわ」
その声は少しだけ震えていた。緊張が、完全に抜けきっていない。
きっと、次にそれを口にするのが自分だということが、まだ胸の内で引っかかっているのだろう。
「ほらよ」
俺はスプーンで新たに蜜を掬い、母の口元へ差し出した。
母はわずかに目を見開いたあと、また小さく目を細める。
きっと、自分で食べる覚悟がつくまで時間がかかると、俺が思っていたことも察している。
「……意地悪ね」
小さくそう言いながらも、母はためらいがちに身を乗り出す。
目を瞑るながら小さく口を開き、待機している
俺は言葉を挟まず、静かにスプーンを傾ける。
とろりとした蜜が、そっとその唇の間に滑り込む。
母は微かに肩を震わせ、受け入れた。
口の中で、蜜が溶けていく。
その味を確かめるように、慎重に、ゆっくりと舌の上で転がしているのが見てとれる。
やがて、母の眉間から少し力が抜け、唇の端がわずかに緩む。
その表情は、先ほどよりもいくらか――安らかだった。
「……美味しいわ」
ぽつりとこぼれた声は、まるで胸の奥から染み出たもののようだった。
「そう言っただろ」
俺は肩の力を抜くように、自然にそう返す。
「これなら……前に一緒に作った、蜜レモンも食べられそうね」
「今度、一緒に食うか」
俺の一言に、母の表情がふわりと綻ぶ。
柔らかく、慈しむような笑みだった。
「嬉しいわ。美味しい紅茶を用意しておくわね」
母は楽しそうに未来のことを思い描いている。
「そうか」
「楽しみにしててね」
そう言って母は、そっと目を細めた。
微笑の奥には、未来の約束をそっと大事に抱きしめるような温もりがある。
「約束は果たした。俺は部屋に戻るぞ」
軽く言い残して立ち上がる。
母も貴族として、やるべきことがあるはずだ。
いつまでも俺の相手をさせていては悪い――そんな思いもあっての言葉だった。
立ち去ろうとする俺の背に、ふわりと柔らかな声が届く。
「……ミズキ、今日はありがとう」
その声音は、どこか名残惜しげで、それでいて満ち足りていた。
「すごく……楽しかったわ」
振り返らなくてもわかる。
きっと母は、さっきよりも穏やかに、心からの笑みを浮かべているのだろう。
「俺もだ。……じゃあな」
静かに言葉を返し、俺は母の部屋をあとにした。
廊下に出た瞬間、少しひんやりとした空気が頬をなでる。
気づけば、思考は自然と自分の中へと沈み込んでいく。
母とは、以前に比べて格段に――まるで別人のように、仲良くなれたと思う。
最初こそぎこちなかったが、途中からは冗談さえ交わせた。
あんなふうに笑い合える日が来るなんて、かつての自分では想像もできなかった。
……途方もない進歩だと、心からそう思う。
ただ一つだけ、胸の奥に小さな棘のようなものが残っていた。
母は俺が過去にしてきた事について、一度も触れなかった。
あれだけ近くにいたのに。
あれだけ言葉を交わしたのに。
何ひとつ、責めもせず、問いもしなかった。
……気を遣わせたんだろう。
分かっていた。
俺はあまりにも情けない。
謝罪の言葉すら、まともに言えないまま、親の優しさに甘えて、何もなかったような顔をして過ごしていた。
このまま、ずっと何事も無かったかのように、時間がすべてを流してくれるまで放置するのだろうか。
そんな自分に、嫌気が差す。
自己嫌悪が、じわじわと胸の奥を蝕んでいく。
あんなにも優しく接してくれた母に、俺はまだ、何ひとつ返せていない。
――次に会ったときだな。
蜜レモンを一緒に食べるとき。
そのときこそ、きちんと話そう。
謝るべきことを、謝ろう。
あれだけ楽しみにしてくれていたのに申し訳ない。
今日のような和やかな雰囲気にはならないだろうな。
だが、それでも。
ケジメをつける。
母の笑顔を、今度こそ、胸を張って見られるように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます