第三話
そこは、広々と開けた空間だった。
陽光が容赦なく降り注ぎ、遠目で見える騎士たちは黙々と走り込みや型の稽古に励んでいる。
剣が振るわれる音、乾いた掛け声、踏みしめる足音——静かな屋敷とはまるで別世界だ。
なるほどな。
さっきセリスが屋敷の近くにいた理由がようやくわかった。
あれは単に、日陰を選んでいただけなのだろう。
これだけの直射日光の下で、訓練し続けるのはさすがに過酷すぎる。
「セリス、この訓練場に体を休める場所はあるのか?」
今後、俺もここに通って体を鍛えるつもりだ。
気になることは、今のうちに聞いておいた方がいい。
セリスは小さく頷き、少し柔らかい表情になった。
「一応、武器庫があります。簡単な休憩もできます。……説明ついでに、案内いたします」
セリスの後ろを、少し距離を空けてついていく。
途中ですれ違う騎士たちは、皆一様に驚いた顔を見せ、戸惑いの色を隠せていない。
まあ無理もない。
一旦、放っておくことにする。いつか、俺の内面の変化に気づいてもらえれば、それでいい。
「こちらが武器庫になります。少々お待ちください。」
セリスがそう言って扉を開け、中へと姿を消す。
待つこと数十秒。
中から七、八人の騎士たちがどやどやと出てきた。
皆、日差しを嫌ってここで休んでいたのだろう。
まるで岩陰に隠れていたダンゴムシみたいだな……なんて思いながら、俺は小さく息を吐く。
「休憩中、悪いな」
そう声をかけると、騎士たちは一瞬ぎょっとしたような顔をし、頭を下げながら武器庫への道を開ける。
道が開いたのを見て、俺は一歩、扉の内側に足を踏み入れた。
途端に、ほんのわずかに冷えた空気が肌を撫でる。
窓はなく、厚い石造りの壁と天井が熱を遮っているのだろう。
それだけで、外の焼けつくような陽射しとの違いに、少しだけほっとする。
室内は広く、壁一面に武器が整然と並べられていた。
鉄と鋼の光沢、鈍く鈍色に輝く刃。
大剣、長剣、短剣、斧、槍——中には見慣れぬ形状のものもいくつかある。
すべてが美しく手入れされ、木製の武器掛けにきちんと並んでいる。
天井の梁には、大小様々な盾まで吊るされていた。
「……すごいな」
思わず声が漏れた。
男の子なら、いや、大人でもこれは心躍る光景だろう。
セリスはすぐ横で静かに立ち、微かに微笑んでいる。
「武器は全て、定期的に鍛冶師によって整備されています。防具や矢筒などもこちらに保管されております」
説明を聞きながら、俺はふと一振りの剣に目を奪われた。
飾り気はないが、鋭く研ぎ澄まされた刃。
鍔の造りも美しく、柄には細やかな細工が施されている。
気がつけば、手が伸びていた。
真剣——本物の剣を、無意識に手に取ろうとしていた。
「お待ちください!」
セリスの声が、思いのほか強く響く。
振り返ると、彼女は少し慌てたように、だが真剣な表情でこちらを見つめていた。
「それは……真剣です。危険ですので、どうかお控えください」
俺は思わず手を止めた。
指先が触れる直前で、静かに息をつく。
「ああ……悪い。ちょっと興味が湧いただけだ」
セリスはほっとしたように小さく息を吐き、微笑み直した。
「訓練用の木剣でしたら、そちらにございますので……そちらからお試しください」
指差された先には、無造作に積まれた木剣や練習用の防具が置かれていた。
——そうだな。
まずは、そこから始めるべきだろう。
俺は苦笑しながら、真剣から手を離し、代わりに木剣の方へと歩み寄った。
木剣の置かれている台に手を伸ばし、適当に一本を選ぶ。
思っていたよりもずっしりと重い。
——木でこれなら、本物の剣はどれほどの重さだろうか。
「……意外と重いな」
自然と声が漏れると、セリスは小さく微笑んだ。
「初めて手にする方は、皆そうおっしゃいます」
「慣れれば、その重さも力に変わりますから」
彼女は柔らかな声でそう言い、俺の正面に立つ。
一歩だけ近づいて、俺の手元にそっと視線を落とす。
「もしよろしければ、少しだけ構え方をお教えしても?」
優しく問いかけられ、俺は思わず苦笑した。
随分と初心者扱いだが——まあ、事実そうなのだから仕方ない。
「頼む」
短くそう返すと、セリスは静かに頷き、俺の手元を丁寧に見つめる。
「まず、利き手をこちら。反対の手は軽く添えるだけです」
「剣先は少しだけ下げて、身体の中心を意識して……はい、その調子です」
指示に従いながら、彼女の落ち着いた声を耳で追う。
間近から伝わる気配が、不思議と心地よい。
「……さすがだな」
つい口をついて出た言葉に、セリスは少しだけ驚き、微笑み直した。
「幼い頃から、剣はずっと触れていますから」
俺は自分だけで構え直し、試しに軽く木剣を振ってみる。
セリスは見守るように静かに立っている。
「そのまま、力みすぎずに——はい」
空を切るわずかな風音が耳に残った。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がじわりと高鳴る。
「……楽しいな、これ」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
剣を振る。ただそれだけの行為が、こんなにも面白いとは思わなかった。
セリスは少し目を丸くし、それから柔らかな笑みを浮かべる。
「そう言っていただけるなら、嬉しいです」
その言葉と微笑みに、俺も小さく笑った。
彼女の目に映る自分は、もう昨日までの俺とは、違う表情をしているだろうか。
セリスの真面目でありながら、どこか掴みどころのない雰囲気に、知らず知らず乗せられてしまっている。
気がつけば、もうすでに素の俺が顔を出し始めていた。
まあ、別に隠しているわけじゃない。
ただ——いきなり性格を変えるのが、ちょっと恥ずかしかっただけだ。
「ミズキ様、武器庫はこのぐらいにして、訓練場の広場の案内をさせていただきますね」
「そうだな、次に向かうか」
俺は木剣を元の場所にそっと戻す。
手のひらに残るわずかな木の感触が、なぜか名残惜しく感じられた。
剣を握り、振る——ただそれだけのことが、こんなにも楽しいとは思わなかった。
騎士たちが振る“本職の剣”を、この目でじっくり見たい。
そんな期待が、胸の奥で静かに膨らんでいく。
セリスの後ろについて歩きながら、俺は無意識のうちに足取りを速めていた。
武器庫を出た瞬間、容赦ない日差しが肌を刺した。
焼けた石畳からは熱気が立ち上り、空気が揺らめいて見える。まるで世界そのものが歪んでいるかのようだった。
遠目に見えるのは、黙々と訓練に励む騎士たちの姿。
だが、揺れる空気のせいで彼らの動きは蜃気楼のように曖昧で、しっかりとは捉えきれない。
けれど、歩を進めるにつれ、その輪郭は徐々に鮮明になっていく。
剣が風を切る音、鋭く響く掛け声、踏み込む足音——そのすべてが、一つの整ったリズムとなって訓練場に広がっていた。
ただ見ているだけで、胸の奥がわずかに高鳴るのを感じる。
「目で追うことすらできないな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
目の前の動きは、人間のそれとは思えない。まるで高速で動く人型の影のようで、腕の振り、足の踏み込み、そのすべてが俺の認識を置き去りにする。
何だこの世界は——。
ほんの少しだけ剣を振っただけで、風圧が肌に心地よく当たり、その風が巻き上げた土埃が汗ばんだ肌に張り付く。
やがて、訓練していた騎士たちも俺たちの存在に気づいたらしい。
次第に動きが緩やかになり、最後の型を収めると、整列して頭を下げた。
「気づくのが遅れ、申し訳ございません!」
真面目な顔つきで礼をする騎士に、俺は小さく首を振る。
そのくらいで謝らなくてもいいのに、と思う。
「気にするな。見事な剣技だな」
素直な感想をそのまま口にする。
——まあ、正直なところ、速すぎて半分以上は見えていなかったのだが。
俺の言葉に驚いたのか、訓練していた騎士たちはどこか呆然とした表情を浮かべている。
その空気を読んだのか、セリスが静かに口を開いた。
「これでも、まだ基礎的な型稽古です。皆、毎日繰り返しているものです」
セリスはそう言って、ほんの僅かに微笑みを浮かべた。
その穏やかな声に耳を傾けながら、俺はもう一度視線を訓練場へ向ける。
遠くで俺に気づいていない騎士が型の訓練を続けている。
一糸乱れぬ動き、磨き抜かれた型、鋭い剣閃——
まるで芸術のように、規則的で整然としたその動作は、ただ見ているだけでも不思議と胸が高鳴る。
できれば、もっと「動きのある」戦いも見てみたい。
「……騎士同士の模擬戦も、いつか見せてもらえるか?」
「もちろんです。模擬戦は週に何度か行われています」
「迫力もありますし、きっと楽しんでいただけると思います」
——その横顔は、どこか誇らしげにも見えた。
俺は微かに口角を上げると、再び剣士たちの姿に目を凝らした。
「それは……期待できるな」
そう言いながら、気まぐれに視線を巡らせ、訓練を続けていた騎士たち一人一人と順に目を合わせる。
驚き、戸惑い——そして、わずかに張り詰める空気。
なるほど、俺がこんなふうに気さくに声をかけるのは、彼らにとってはそれだけ“異常”なのだろう。
つい昨日までの俺なら、こんな冗談めいた言葉すら吐かなかった。
むしろ冷たく、誰もが口をつぐむほどの態度を貫いていたはずだ。
だからだろうか、静かに、ただ確かに広がっていく緊張の波が、肌に伝わってくる。
どうやら、彼らは「期待外れだったらどうしよう」なんてことまで想像したのだろうか。
この実力で期待外れになることはないと思うけどな。
むしろ成績が良かったものには何か褒美を出そうかな。こんな過酷な場所で訓練しているのだ、少しの飴ぐらいは与えてもいいだろう。
「……模擬戦で、俺が気に入った奴には、褒美でもやろうかな」
小さく、ぼそりと呟く。
だが——その声は意外とよく通ったらしい。
騎士たちの間にざわめきが広がる。
まるで水面に投げた小石の波紋のように——次第に、大きく、遠くまで。
気合を入れ直す者。
「今度の模擬戦には参加しようかな」と小声で言い合う者たち。
その光景に、俺はふっと小さく笑ってしまった。
まあ、やる気が出たなら良かったよ。
「よろしいのですか、ミズキ様?」
隣を歩くセリスが、少し驚いたように口を開いた。
「問題ない。何かしらの褒美は——準備しておくさ」
俺がそう言うと、セリスはくすっと小さく笑みを漏らす。
「でしたら、私も……頑張らないといけませんね」
その言葉に、俺はふと視線を向ける。
そういえば、セリスの実力は騎士団の中でどのあたりなのだろうか——そんな素朴な疑問が浮かぶ。
「そうか。……お前の実力は、騎士団の中でどのくらいなんだ?」
問いかけると、彼女は少し困ったように眉を下げ、それからあっさりと答えた。
「私は……真ん中くらいですよ」
控えめで、けれど少しだけ照れたような表情だった。
「だったら、今回で上位を目指すのもいいんじゃないのか?」
俺がそう言うと、セリスはふっと笑い、いたずらっ子みたいな顔をこちらに向けた。
「上位になれたら……ご褒美、くれますか?」
冗談めいた声音に、思わず肩の力が抜ける。
先ほどの“模擬戦の褒美”とは別に、私には特別な褒美を——そういう意味か?
……まったく、冗談がうまい。
「そうだな。いいだろう、期待してる」
言葉を返しながら、俺は内心で少しだけ思う。
——随分と距離が縮まったな、と。
冗談を交わせる程度には、彼女の中の「俺」に対する恐怖も和らいだのかもしれない。
こうして誰かと自然に言葉を交わすのは、久しく忘れていた感覚だった。
「それで次の模擬戦はいつにあるんだ?」
「四日後ですよ」
「近いな、退屈せずに済みそうだ」
そう言いつつ、心の片隅で焦りが芽生える。褒美の用意を、急がなくてはならない。
訓練に参加するのは模擬戦の後にするか。それまでは褒美を何にするか考えよう。
町に出て探してみるのも悪くない。
金はある。今まで親から受け取っていた小遣いも、派手すぎる服や小物を売れば、いくらでも足しになるだろう。
「ミズキ様、次の場所の説明に移りましょうか?」
セリスが微笑みながら声をかけてくる。
だが、俺はすでに喉の渇きと、じりじりと焼け付く日差しに体力を奪われきっていた。
額からは汗が流れ落ちる。立っているだけでも妙にだるい。
夏の日差しを少し浴びただけで、こうも消耗するとは——
今まで、どれだけ怠けた生活を送っていたのかがよくわかる。
前世では、満員電車や炎天下の営業で、何だかんだ体力はあったんだなと、しみじみ思い返してしまう。
「悪いが、体力が尽きた。今日はこの辺で屋敷に戻ることにする」
正直にそう言うと、セリスは少しだけ残念そうに目を伏せ——けれど、すぐに柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
「かしこまりました。訓練所の出口までお送りいたします」
彼女の声は、どこか優しく、どこか楽しげだった。
——さっきの残念そうな顔は、俺の案内で訓練をサボれるからか?
そんなことを思い、思わず小さく苦笑する。
俺は軽く頷き、彼女と並んで踵を返す。
「案内、助かった」
「いえいえ。四日後、またご案内させていただきますね」
からりとした声と、自然な笑顔。
訓練所の出口が近づくにつれ、不思議と、ここから立ち去るのが少しばかり惜しく感じる。原因は、隣を歩くセリスとの心地よい距離感だろうか。
それとも単純に、もっと訓練の様子を見ていたかったからか。
おそらく、その両方だろう。
「それじゃあな」
短く言うと、セリスは柔らかな表情のまま、軽く頭を下げた。
「はい。また、いつでもお声かけください」
セリスと別れた途端、急に体の疲れが重くのしかかってくる。
喉の渇きもひどくなり、足取りが少しだけ鈍る。
——やっぱり、人と話していると気が紛れるんだな。
改めて、そんな当たり前のことを実感する。
たぶん、ひとりだったらもっと早く音を上げていた。
それくらい、陽射しも熱気も容赦なく、汗は滲み、肌には張り付いた砂埃が不快だ。
まずは水分をとって——
それから、風呂だな。汗も埃も、全部洗い流してしまいたい。
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