第10話 家族の肖像

 私は、皇帝陛下の魔石の熱さを直に体験して、赤ちゃんが触れられる物ではないと思った。

 けれど、その魔石を握っている赤ちゃんがいる。


 アイゼルも言っているし、このペンダントが皇帝陛下の証である事は間違いない。

 なら、この子は皇帝陛下の子だ!!


 そして、私の妹の子でもあるらしい。


 皇帝陛下の子である事に確信を持った今は、妹の子と言う方は半信半疑になって来る。

 皇帝陛下の子供を産んだ妹が既婚の姉を頼って? 何故?


 とにかく、赤ちゃんを連れて来てくれた人たちと話が出来るまで待つしかない。

 考えても疑問ばかりが増えるだけだ。


 事態を呑み込んだ私はアイゼルの方に顔を向けた。

 さっきとは打って変わって、赤ちゃんを苦い顔で見つめている。

 皇帝陛下の子がいきなり飛び込んで来たらそれは大変だろう。


 確証はないけど妹の子のせいで、大変な目に合わせてしまったと申し訳なく思う。

 考えてみれば、皇帝陛下の子がここに来るより、妹の子が姉を頼って来た方が自然な気がする。


 もし、私が正直に妹に夫婦仲が良くない事を伝えていたら、妹が私を頼ることはなく、この事態は起こらなかったかもしれない。


 でも、その時は妹は誰を頼ったのだろう?


 オギャー!


 スヤスヤと眠っていた赤ちゃんが泣き出した。

私がペンダントを触った刺激が気になってムズムズと動いたけど、またスヤスヤと眠っていたのに、やっぱり起こしてしまったようだ。


 オギャー!フミャー!


 ワーっと泣き声が広がり、朝からの混乱は広がるばかりだった。



 アイゼルが外の扉を開くと侍女が入って来た。

 中年の女性は子どもを何人も育てたと言う子育てのベテランのメルダだった。


「クレア様の子も私がお世話しますよ」

 と頼もしい事を言ってくれていたが、メルダのお世話になる機会はついに来ていない。


 それでも彼女は他の使用人の噂を嗜めてくれている事をミアから聞いて知っていた。


 すぐにメルダが赤ちゃんを抱いてあやし始める。


 赤ちゃんの手にはペンダントがあると思ったが、泣いて手から離してしまったようだ。

 ベビーベッドに落ちているそれをアイゼルが鎖の部分を持って回収し服に忍ばせていた。


 メルダは、他の侍女に指示を出しながら赤ちゃんのオムツを変えたりミルクをあげたりしてくれた。

 ミルクを与えると赤ちゃんはゴクゴクと勢いよく飲み干した。


 部屋いっぱいに広がっていた泣き声が止んで誰もがほっとした。


 赤ちゃんはお腹いっぱいになると、満足そうな顔をして、哺乳瓶に手を伸ばして遊んでいた。


 私は、完全に目を覚ました赤ちゃんを観察する。


 ベビーベッドから出されて、明るい照明の光にさらされた赤ちゃんの髪は、やはり黄金色よりも薄い金髪だった。

 妹の髪色とよく似ている。


 哺乳瓶を見つめて笑う目は、碧眼で眉毛は薄いがまつ毛は長く、澄んだ瞳をしていた。

 妹の瞳は碧がかった灰色で、赤ちゃんの瞳とは違うけど、アイゼルの深い紺碧の瞳より、妹の瞳の色の方が赤ちゃんに近い色だった。


 しかし、どこかアイゼルを思わせる容姿をしているとも思った。


 少し離れたところで赤ちゃんがミルクを見る様子を見守っていたアイゼルにチラリと目をやるのと、急に赤ちゃんがぐずり出すのが同時だった。


 え! どうしたの!?


 私が思ったのと同時に、アイゼルも同じ事を思ったらしく慌てた顔が目の端で見えた。


「眠いんですね」

 赤ちゃんを抱きかかえたままメルダが言う。


「さっきまで寝ていたのにまだ寝るの?」

 思わず聞いてしまう。


 メルダは一瞬、呆気に取られた顔を見せたけど、直ぐに優しく答えてくれた。

 う、いい歳で結婚もしているのに赤ちゃんの事を何も知らない私に呆れたのね。


 子供みたい質問をしてしまった自分が恥ずかしくなる。

 でも、それはアイゼルのせいなのだから仕方ないじゃない!


 バツの悪さにまたアイゼルに目を向けると、アイゼルもバツの悪そうに横を向いていた。

 多分それは私に対しての申し訳なさより、自分も知らなくて子供みたいな疑問を持った事への恥ずかしさだろうと思った。


「生まれたばかりの赤ちゃんはよく眠るんですよ。それに、この子を連れて来た従者も疲れて眠っているんです。赤ちゃんなら尚更疲れていますよ」


 ワー!ギャー!


 赤ちゃんの声が響く。

 確かに疲れているんだとは思うけど、何故泣く!?


 それを聞くのは、また呆れられそうで聞けなかった。



 赤ちゃんの泣き声は、一向におさまらず、逆に大きくなるばかりだった。

 メルダは落ち着いてヨシヨシと赤ちゃんをあやしている。

 赤ちゃんの事など何も知らない私は、メルダを見守るしか出来なかった。


 何も出来ずに見ているだけの私の向こう側で、アイゼルもやはり何もできずにいた。


 泣き声にうんざりと言う顔をしている。

 夫にこんな形で近づける日が来るとは思わず、アイゼルの端正な顔の変化を見るのは楽しかった。


 私を避けるアイゼルは結婚してからずっと、私に優し顔を見せてはくれなかったけど、それ以前からも厳しい顔をしていたのだと思う。


 アイゼルは年老いた父であるこの北の辺境伯と病弱な兄に代わりに結婚前の十代の頃から政務をこなしていた。


 いつも表情は厳しく、辺境の荒野の地に重苦しい空気を与えている人物であった。

 上流階級の間でも悪い噂が絶えず、煙たがられる存在であり、社交の場に姿を現す事は滅多にない。

 結婚前の私の耳にもそんな噂は届いていた。


 ミアは、

「こんな人に嫁ぐなんて!婚約は断ってもらいましょうよ」

 と言っていたけど、私は気にしなかった。


 アイゼルはミアが来る前に出会った私の初恋の人だから、とても優し男の子なのを知っていたから。


 でも、実際にあったアイゼルは噂以上に冷たい人だった。


 いや、それは噂とは無関係にアイゼルが私を嫌いなだけなのかも知れないけど。


 変わってしまった男の子に、

『私の事を覚えている?』

 と、まだ、それさえ聞けずにいる。


 そんなアイゼルが赤ちゃんの前ではこんな面白い表情を見せてくれるなんて!


 私は赤ちゃんも気になりつつ、横目でアイゼルの事もしっかり見ていた。


 アイゼルは端正な顔を真剣に赤ちゃんに向けて、泣き声が小さくなったと思ったらホッと優しい目を向けていた。

 こんな優しい表情ができるのはやっぱりあの日の男の子だと思った。


 アイゼルの変化に私の胸がキュンキュンと高鳴る。

 でも、こんな素敵な夫と離婚を決意したのだということを思い出して切ない気持ちになった。


 この赤ちゃんが妹の子だとして、私はどうすればいいのだろう?



 赤ちゃんがようやく眠った。

 実際には短い時間だったのだろうけど、永遠に続いていたような気がして、ドッと疲れた。


「やっと眠った……」

 アイゼルが本当に安心したように囁いた素朴な台詞を私は聞き逃さなかった。


 私も同じ台詞を口の中で呟いていたから、二人で同時にやり遂げた一体感があって体の内側が暖かくなった気がした。


 赤ちゃんが眠り静かになった部屋から、また侍女たちが出て行った。


 ホッと一息つきながらベビーベッドに寝かされた赤ちゃんを二人で見つめると幸せな時間が流れている気がする。


 赤ちゃんが寝かされたベビーベッドは、古く、歴史を感じさせる複雑な模様が施されていたが、丁寧に埃が落とされ、清浄さで満ちていた。

 アイゼルと私が結婚した時からいつでもまた使えるようにと手入れを怠らなかったのだろう。


 今朝もそのまますぐに赤ちゃんを寝かせて使える様になっていた。


 それに、メルダの指示で動いていた若い侍女たちも、いつ赤ちゃんが来てもいいように準備がされていた様な動きだった。


 まさかの事態に、準備されていて良かったと言う気持ちと、こんな事で使う事になって申し訳ないという思いが私の心に同時に湧いた。


 これから、離婚を切り出すって言うのに……。


 あんな大騒ぎしていたのに、スヤスヤと眠る赤ちゃんを見つめるアイゼルは穏やかで、未だに初めて会った時の純真無垢な少年の面影を見せていた。


 ——花が咲き乱れる館の庭でベンチに静かに座って本を読んでいた男の子。

 陽の光に黄金に輝く金髪がふわふわと風に揺れてタンポポを思わせた——。


 やっぱりこの赤ちゃんと何処か似ている様な気がする。


 気づいたら雨はやみ、日の光がカーテンを揺らす波を作っていた。

 波の下では、スヤスヤと赤ちゃんが眠っていて、久しぶりの太陽が届ける気持ちの良い光を受ける。


 かたわらで眺める私とアイゼルはお似合いの夫婦に見えるだろう。


 アイゼルの端正な顔にかかる黄金に輝く金髪が、日を反射して天使を思わせる輪を描き、紺碧の瞳が優しい眼差しを赤ちゃんに向けていた。

 スラリと高い背と鍛え上げた肉体をフリルと刺繍がふんだんに施された服で包み、絵のに描かれた美青年のようだった。


 私の方も、ミアが手入れしてくれるハリと光沢のある生地を贅沢に使い、チラリと隙間から繊細なレースが見えるドレスと、ミアの手入れしてくれるうねりのある茶色い長い髪がキラキラと光を輝かせ、紫の瞳も絵に映える。


 気づいたら、私が小さな頃から憧れている絵のような家族の肖像の中にいた。


 父と継母が幼い妹を見つめる、あの私が入る事が許されなかった家族の肖像の中へ——。


 この絵を手放したくなくて胸が苦しくなる。


 私がそんな空想に耽っていると、さっきまでの様子とは異なり、アイゼルの顔にはあの仏頂面が戻っていた。


 初恋の男の子に会えると思い心躍らせてやってきた私の心を砕いたあの表情が——。

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