第26話 きしもじ講③
絶望が喉元までせり上がり、心臓が警鐘のように激しく鳴り響いていた。
こんなところでしくじるのか? ここで終わったら魔美と深村堂はどうなる?
ふと数日前の深村堂での光景が鮮烈にフラッシュバックした。
あの時、おキヌさんは坂小路澄夫のファイルを紙袋の中から取り出した。その紙袋に書かれていたのは……鬼の一文字。
口が勝手に動いていた。
「……それはお互い様じゃありませんか?」
仮説が組み上がるよりも先にそう言っていた。今は正しさよりもまず速さだ。
「……何のこっちゃ」
音条の顔から余裕が消え、探るような鋭い視線を僕に向ける。間を制したという感触があった。
「とぼけないでください。おキヌさんから聞いてますよ」
そして意味のない相づちで時間を稼いでいたら、考えが追いついた。
あの紙袋に書かれた鬼の文字は間違いなく鬼子母神由来だ。そしてあの紙袋には他にもまだファイルが入っていそうな気配があった……僕は決め打ちで坂小路澄夫に選ばれたわけではなく、依頼の中から僕に一番近い出席予定者が坂小路澄夫だったのではないか?
僕は声が震えないよう腹の底に力を込めて、駄目押しの言葉を静かに吐いた。
「僕ら、同業者じゃないですか」
状況証拠から推し量っただけの弱い根拠。でもそれに全てを賭けると決めた。
しばしの沈黙の後、やがて音条は観念したように天を仰いで大きく息を吐いた。その顔にはもう僕を試すような色はなかった。
「……参った参った。降参や」
音条はふっと笑う。自分で障壁を一枚剥がした感じだ。
「白状するわ。最初はキミをちょっと脅して主導権を握ったろと思うてカマをかけた」
音条……いや、偽音条は声を潜めて続ける。
「せやけど、見事な返しにやられたわ。若いのに堂に入ったシテ師ぶりや」
なるほど。彼は僕を試し、値踏みしていたのか。
「この流れ、協力のお誘いと解釈していいんですね?」
「話が早くて助かるわ。この先、ボロが出そうになったらお互いにフォローし合わんか?」
音条がすっと右手を差し出してきた。その目には同じ境遇に立つ者だけが共有できる、切実な光が宿っているように見えた。
僕はその手を躊躇なく握り返した。
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僕たちは何食わぬ顔で座敷に戻った。きしもじ講の空気は僕が席を立つ前とは打って変わって、お開き前の気怠さに満ちていた。雰囲気も緩みきっているように見え、最早音条と協力するまでもなさそうだ。
隣の音条と顔を見合わせて苦笑しあった時、久我氏が場を制するかのように、一度だけ乾いた咳払いをしたのだ。その途端、緩みかけていた空気が再び張り詰める。
この狂った宴にはまだ何か続きがある。そんな予感がした。
僕が自分の席に戻るのとほぼ同時に、襖が静かに開かれ、仲居が盆を手に現れた。その盆の上には客の数と同じ、十の小さな朱塗りの盃が並べられている。仲居は一言も発さず、能面のような無表情で、一人ひとりの膳の前にその盃を置き、何かを注いでいく。
「皆様、きしもじ講もこれにてお開きとなります。つきましてはみなさまの今後のご健勝を祈念し、この御神酒を飲み干していただきたく存じます」
久我氏が厳かに告げた。その口調はこれが決して断ることのできない儀式の一部であることを物語っていた。
他の参加者たちは、諦念を浮かべた者、恐怖に顔を強張らせる者、あるいは全てを悟ったかのように虚ろな目をする者と、反応は様々だった。
僕は震える指で朱塗りの盃を手に取った。まるで水銀でも入っているかのように重い。意を決して、御神酒を呷る。
飲み干した瞬間、それを認識した。
円を描くように並べられた僕たちの膳、その中央。何もないはずの空間がまるでインクの染みのように、じわりと濃くなった。最初はただの影だったのに、見る間に立体的に膨れ上がり、やがて黒々とした巨大な人型が鎮座していた。
それは目鼻のない漆黒の顔で周囲を睥睨したかと思うと、ゆっくりと円環の内側を移動し始めた。一人、また一人と男たちの顔を覗き込んでいく。品定めをするように、その漆黒の貌を至近距離まで近づけて。
やがてそれは僕の前に来た。
瞳もないのに、何故だか目が合ったのが解った。
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重たい泥の底からゆっくりと浮上するように覚醒した。
最初に感じたのは古びた木と少し黴臭い布団の匂い。鳥の声でかろうじて朝だと解る。ゆっくりと目蓋を開けるとそこには見覚えのある、しかし見慣れない天井があった。
脳に数秒の読み込みが発生して、ここが深村堂の奥の間だと理解した。
いや、どうして僕はこんなところにいる?
重い身体を起こす。長押にかかっているのは昨日着ていたスーツだった。そして自分が浴衣を着せられていることに気づく。枕元を見れば盆に乗せられた水差しまであった。
状況を飲み込めないまま呆然としていると障子がすっと音もなく開いた。
「お、やっと起きた」
甚平姿の魔美が僕を見下ろしていた。部屋着なのか寝間着なのか解らないが、随分とラフな格好だ。
だが僕は暗澹とした気持ちになる。どうやら魔美に借りを作ってしまったらしい。
「なあ、僕はなんでこんなところにいるんだ?」
債務者には債務者なりの矜持がある。それに訊かずになあなあで済ます方が気持ち悪い。
「憶えてへんの?」
僕は記憶の糸を必死に手繰り寄せようとする。柊野での宴、そして化粧室で音条を演じる男に声をかけられ……そこから先の記憶がまるで切り取られたフィルムのように、ぷっつりと途絶えていた。
「途中までは憶えてるんだけど」
僕の返事に魔美は「まあ、そうやろな」と大きなため息をついた。
「昨日の夜中、店の戸を叩き続けててな。開けたらもう立ってるのがやっとって感じで、見るからに汗びっしょり。熱でもあるんか思たわ。戸が開くなり糸切れたみたいに倒れるし」
魔美は長押からハンガーを持ち上げ、スーツを見せる。
「そのまま転がしといても良かったんやけど、スーツがわやになったら勿体ないからな。で脱がせるついでに、あんたの身体もきれいに拭いたった。ほんでそこらにあった浴衣を着せて布団に入れたんや」
僕の頭が真っ白になった。服を脱がされただけでなく、汗で濡れた全身を拭かれただと?
魔美は悪戯っぽく笑って追い打ちをかける。
「あんたがひょろいおかげで、ウチでも運べたけどな」
顔から火が出そうとはこのことだ。
魔美は膝を折って僕の前に座ると、僕の額に手を当てる。
「まだちょっと熱いかな? まあ、ひとまず大丈夫やろ」
助けて貰った分際でこんなことを言うべきではないのは解っているが、こいつは僕をいたぶって楽しんでいる。
「……悪い。余計な手間をかけさせた」
僕が絞り出せたのはそんなぶっきらぼうな言葉だけだった。魔美は僕の反応を面白がるように笑う。
「報酬から引いとくから。結局、今回の報酬は10万円やな」
まあ、諸々が金で済むなら安いものだ。下手に利子をつけられる方が怖い。
僕は枕元の水差しから直接水を飲み干す。乾ききった喉がひとたび潤うと当然の疑問が浮かんできた。
「なあ、正直に教えてくれ。きしもじ講って一体何だったんだ?」
「もう済んだことやん。次はもう呼ばれへんやろし、知らんでも困らんと思うけど?」
「納得したいんだよ。自分の身に何が起きたのか」
僕の気持ちを見定めたのか、魔美はふっと息を吐くと諦めたように口を開いた。
「もともとは人の子を喰らう悪い鬼やったけど、お釈迦様に諭されて安産や子育ての善い神さんになった、てのが鬼子母神や……表向きはな」
魔美はまるでおとぎ話でも語るかのように淡々と、しかしどこか冷たい響きを帯びた声で続けた。
「鬼子母神様の本質は愛情深いことやない。自分の子供だけが可愛い、そのためなら他人の子はどうなってもええていう、どこまでも身勝手で人間くさい鬼の心や。そして京都には鬼子母神様のそういう苛烈な面を信仰した勢力がおったんや」
「邪魔者はどんな手を使ってでも排除する……そんな気持ちが信仰になったという解釈で合ってるのか?」
「ああ。昨日の宴におった連中の家はみんなそうやな」
同席した面々の顔を思い出して、背筋が少し冷たくなった。
「けどよう効く薬には強い副作用もある。繁栄という甘い果実を喰らうたびに、家には見えない負債が溜まっていく。返済するには鬼子母神様へ当主の一番大事なもん……血を分けた子供を生け贄に差し出すしかない」
「呪いなんて……ただのオカルトだろ? そのために生け贄を差し出すなんて馬鹿げてる」
「でも、みんなしてそう信じてるんやからしゃあないやろ?」
ああ、またそれか。呪いも社会全体で本気で信じてたら、本当に起こるという……。
「確かに代償のない永遠の繁栄を信じる方が怖いのは解るけどさ」
「本気で信じている以上、踏み倒したらエラいことになるのも解ってたやろな」
そのロジックは理解できる。だが、それでも自分の子を捧げるなんて可能だろうか?
「でもある時、誰かが考えたんや。鬼子母神様を信仰する家同士で集まって、合同で生け贄を一人捧げて許してもらう。だけど誰を生け贄にするか鬼子母神さん自身に選んでもろたらええやん、てな。それがきしもじ講の始まりや」
全てのピースが音を立てて繋がっていくような気がした。
「でもな、人間ってのはどこまでもずる賢い。その内に自分の子供が偶然死ぬんのも嫌になった者が抜け道を考え始めた」
ああ、だから……僕は坂小路家から身代わりに立てられたのか。
「子を沢山作って、出来損ないや厄介者を差し出すようになったり、妾に作らせた子を捧げたり……手っ取り早く赤の他人を金で雇って身代わりに立てるようになった」
考えてみると、宴席での質問合戦は「自分たちは本物の跡取りですよ」「こんなに価値のある者ですよ」と鬼子母神を欺き、その気を引くための必死のプレゼンテーションだった気がする。
でもあの宴の参加者たちは真の目的を知らされていなかった……本来の目的を考えたら当たり前だ。みなが真剣に役を演じなければ意味がないのだから。僕はふと音条を演じていた男のことを思い出す。彼は無事なのだろうか。
「なあ、もしも鬼子母神に選ばれてたらどうなってたんだ?」
「呪いにかかって……少なくとも京都にはおられんようになってた筈や」
「お前……僕だって別に地元に帰りたいわけじゃないんだぞ?」
「祟やったら、呪いとか気にせんとここにいてくれるやろ?」
「はあ? なんだよその信頼は?」
「『深村堂への文句は僕に言え』って言うたやん。あんなの、呪いを恐れてたら絶対に言われへんで」
僕の中にある仮定が生まれた。
確かに僕はあの時、卒塔婆やその背後にいる金持ちたちに向かって、勢いよく啖呵を切った。だがあれが原因で、深村堂に来る仕事の難度が上がったとしたら?
そう思えば、今回のも僕を潰すための仕事だ。いや、完全に自業自得ではあるのだが。
「そうだ。最後に何か飲まされて真っ黒い怪物が見えるようになったんだ。あいつは明らかに生け贄を選んでいた……あれが鬼子母神様なのか?」
「昨日も"何か見えた"って言うてたな。でもただの幻覚やろ」
魔美は肩をすくめる。
「……どういうことだよ?」
「宴の最後に飲まされる御神酒になんや妙な成分が入ってるのはウチも知ってる。だから祟の服脱がせた後、念入りに吐かせたんや。服が汚れんようにな」
「吐かせたって、お前……」
「そら、喉にこう指を突っ込んで……そこも憶えてへんの?」
魔美が白い指を動かす。想像しただけで身体の内側から発火しそうだ。
「違う! 詳細を聞かせろって意味じゃない!」
「ええやん。ちょっと汚れるぐらいで、正気に戻れてんから」
御神酒を飲めば幻覚で何かが見える……魔美の中ではそういう理解なのか。
でも僕の理解は違う。
信仰が呪いにまで昇華された結果、本来の鬼子母神とは無関係に誕生した何かがいて、御神酒で感覚の波長が合って見えるようになる……エビデンスも何もないけれど、そんな感覚なのだ。
「お腹空いたな……朝ご飯にしよか」
魔美は立ち上がり、台所の方へ向かうべく襖を開ける。魔美に僕の感じている危惧や恐怖は伝わっていない気がする。
部屋を出て行く間際、魔美は僕の方を振り向いた。
「ああ、祟。折角やし、朝ご飯食べて帰り」
「……高い朝飯になりそうだな」
布団から出ようとして、入学式で言われたあの言葉を思い出す
「人間はパズルのピースです。だから誰にだって繋がる相手や収まるべき場所があります」
あれから四年経って、天の配剤としか言えない幸運で、僕は繋がるべき相手と収まるべき場所を見つけた……でも僕はまだ天の気まぐれでいつでも吹き飛ぶピースにすぎない。
自信満々でシテ業に挑んだはいいが、待っていたのは僕の手には余る超常的な存在だった。この先もまたこんな仕事が舞い込むようなら……知識か、力がなければ命を落とす。
一体、どうすればいいんだ?
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