第25話 きしもじ講②

 仕事当日の夕方。僕は着替えのために深村堂へいた。


 魔美はネクタイを結びながら、唐突にこんなことを切り出した。

「坂小路家の仕事やねんけど、ちょっと心配があんねん……」

「それを今言うのか?」


「なんか知らん間に、ウチのところに来る仕事のランクが上がっとった」

「今回の仕事もそうなのか?」

「うん。ただのシテ業やないかも……受けたウチのミスかもしれへん」


 珍しく魔美がしおらしい。

「その分、報酬も増えるんだろ」

「でも危険性も上がるんやで?」


 まるで流行のゲームみたいだ。ダラダラと弱い敵を狩ってヌルく稼ぐことを許さないため、プレイヤーの進行度に合わせて敵も強くなるのだ。

 僕だって結構強くなった筈だ。


「もし不安やったら今からでも断ろか?」

 魔美の懸念は理解した。一応は僕を心配してくれているのだ。

「いや、やるよ」


 今断ればドタキャンになる。紹介者としての魔美の信用は落ち、しばらく仕事が回ってこなくなる可能性がある。深村堂の経営や僕の家計的にもそうなると厳しい。

「そんならええけど……ありがとうな」


 魔美にジャケットを着せて貰うと、気分はもう坂小路澄夫だ。

「終わったらまっすぐ深村堂に来てな。ウチも起きて待っとくから」

 魔美は僕の背中を軽く叩きながら、そう言った。


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 17時半、僕は坂小路家の門の前で一人佇んでいた。


 魔美の話ではここにお迎えが来る手筈になっている。だけど僕は屋敷から放たれる何者かの視線に晒されているような気がして落ち着かなかった。僕が坂小路澄夫の代役として相応しいか、検分する濃密な念が背中にひしひしと伝わってくる。


 ほどなくして黒塗りの高級車が音もなく滑るように現れ、僕の目の前で停まった。運転席から降りてきた男は僕に一礼すると、無言のまま後部座席のドアを開ける。促されるまま乗り込むと、分厚いドアが外界の音を完全に遮断した。革のシートが僕の身体を深く受け止める。


 結局、最後まで坂小路家の人間が僕を出迎えることはなかった。彼らにとって僕は金で雇った道具に過ぎないのだろう。


 そして車は静かに走り出す。運転手は客を目的地に運ぶという役目だけが仕事とばかりに押し黙っていた。こうなると会話の糸口が見つからず、口下手な僕にはお手上げだ。


 だから僕はただ窓から暮れなずむ京都の街並みを眺めるしかなかった。見慣れたはずの景色がスモークのかかった窓ガラス一枚を隔てただけで、まるで手の届かない遠い世界の出来事のように見えた。


 やがて車は祇園の喧騒を抜け、石畳の細い路地で停まった。

「ヒラギノです」


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 下ろされた先にあったのは「柊野」という小さな表札を掲げた料亭だった。その間口は狭く、注意していなければ通り過ぎてしまいそうなほど目立たない。


 だが黒格子の引き戸をくぐった瞬間、外観からは到底想像もできない、深く長い石畳のアプローチが続いていた。手入れの行き届いた苔庭が幽玄な陰影を作り、巧みに配置された灯籠が足元を淡く照らし出す。


 衣擦れの音さえ吸い込んでしまうような静寂の中、どこからか水の流れる音が微かに聞こえる。まるで神域にでも迷い込んだかのような、現実感のない空間だった。


 異界めいた道を随分と歩かされた末、ようやく母屋の玄関にたどり着く。黒い着物姿の仲居が僕の到着を待っていたかのように音もなく現れた。


「坂小路様、おこしやす」

 その一言で最後のスイッチが入った。僕はもう神田祟ではない。


 通された座敷は二十畳はあろうかという広さで、床の間には山水画の掛け軸が下がっていた。部屋の中央には巨大な円を描くように、十の脚付き膳が寸分の狂いもなく等距離に並べられていた。


 どこにも上座・下座のないその配置は一見平等だが、その実全員が互いを牽制し合うための布陣にも見える。まるで秘密結社の会合のようだ。既に九人の男たちが着座していた。いずれも上質な着物やスーツに身を包んでいるが、その表情は一様に硬い。


 二十代前半の僕のような若者から、四十代半ばほどの貫禄のある男まで、年齢層はばらばらだ。彼らが京都の名家に関わる人間だということはその儀式めいた異様な空気と、隙のない佇まいから嫌でも伝わってきた。


「皆様、坂小路家の澄夫様でございます」

 仲居の言葉を受け、僕は練習通りに完璧なお辞儀をした。

「坂小路澄夫です。急な一時帰国となり、皆様へのご挨拶が遅れました。本日はどうぞ、よしなにお願いいたします」


 声は震えなかった。僕の中にいる”彼”がそうさせた。

「いやあ、坂小路のご次男。ようこそ」

 座るなり、隣の男が鷹揚に声をかけてくる。


 それぞれが「音条おんじょうや。久しぶり」とか「舞泉まいせんです。憶えてる?」と家名を名乗りつつ声をかけてくるがまだ深くは踏み込んでこない。奇妙な緊張感がまるで薄い膜のように座敷全体を覆っていた。


 実際に言葉を交わしてみて解ることがあった。この世界には家格の上下があり、そして当然だが上位の者ほどそれを極力固定化したい……そんな気持ちから発せられる言葉は他者を縛る呪いを帯びている。


 魔美を縛っていた呪いの一端を身を以て理解できた気がした。

 緊張はしているが、かろうじてまだ唾は飲み込める。これから何が始まったとして、縛られて動けなくなることだけは避けないといけない。


 やがて最初の料理が運ばれてきた。先付けとして出されたのは鮑の酒蒸しに雲丹を添えたもの。器も盛り付けもきっと最高級だ。

「さて、みなさま。お手元に飲み物はお揃いでしょうか」


 対面に座っている初老の男、久我氏が口を開いた。見たところ最年長だから、場を仕切る役どころなのだろう。

「本日はきしもじ講にお集まりいただいてありがとうございます。みなで鬼子母神様に感謝の念を捧げつつ、楽しくやりましょう。乾杯!」


「乾杯!」

 僕はビールを口に含みながらこの席のことを考えずにはいられなかった。

 きしもじとは鬼子母神のことだったのか。しかしどうして鬼子母神に感謝を捧げるんだ?


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 僕を含めた十人の男たちはただ黙々と儀式のように豪華な料理を口に運び始めた。だが前口上とは裏原に、誰もが心から舌鼓を打っている様子はない。


 それにしても……予習してきた食事の作法を実践してはいるが、他の出席者たちの探るような視線が絡みついてる気がして、箸と椀を持つ両手もなんだか重い。京都を丸四年留守にしているだけでここまでマークされるものか。


 そして最初の矢を放ってきたのは久我氏だった。

「澄夫くん、憶えてる? 子供の頃、よくうちの蔵で遊んだやろ」

 僕の背筋に冷たい汗が一筋流れる。だが僕はわずかに困ったような、それでいて懐かしむような笑みを浮かべた。


「懐かしいですね、久我さん。酔った大人たちの中にいるのが厭な時はよく遊ばせてもらいました。ただ、あの蔵にはよくない思い出がありましてね」

「ほう?」


「ある日、蔵で寝ていたねずみの上に座ってしまいましてね……そのトラウマであまり思い出せないんです」

 古い蔵ならねずみぐらいいるだろう。久我氏がムキになって否定したら謝ればいい。


「そら、君にもねずみにも悪いことしたなあ……」

 久我氏はそう笑い飛ばして酒を呷る。ひとまず初撃はかわせたと見て良さそうだ。

 次に僕を試してきたのは理知的な眼鏡の男、舞泉氏だった。


「そういや澄夫さんは美術の勉強のために留学しはったんですよね?」

「ええ。親のスネを美味しく囓らせて貰ってます」

「でも美術なら京都でも学べたんと違います?」


 暗に「京都から逃げたんだろう」「帰ってくるつもりもないんだろう」と刺している。当人の真意はともかく、僕は澄夫として綺麗な答えを返さなければならない。


「……僕はこの世で京都が一番ええとこやと思ってますし、それはみなさんも同じでしょう。でもだからこそ外から見んと解らんこともあると思ったんですわ。たった四年、外に行くだけでお山の大将にならんで済むんやったら、ええ投資ですよね?」


「投資……確かにな。そして五年十年単位で見んと解らんのもまた投資や。澄夫さんが成長株やったらこの場のみんなもこぞって買うやろな」


 「違いない!」という合いの手が入って、また別の話に流れていった。念のために用意していた台詞が半分ぐらいは役に立った気がする。

 だが三度目の質問は思わぬ角度から飛んできた。


「澄夫さんってお兄さんとは相変わらずあまり仲がよろしくないんですか?」

 座敷の空気が一瞬凍りつく。質問したのは隣に座っている音条家の軽薄そうな男だが、僕もまさかそんなストレートにネガティブなものを投げてくるとは思っていなかった。


 その質問の答えはファイルにはなかった。だが、返答を間違えば僕は坂小路澄夫の資格を喪失する。

 絶体絶命の窮地を自覚した途端、目には見えない重圧が僕の身体にのしかかり、恐怖が育ち始める。


 ……ああ、この恐怖。覚えがある。

 一年前のあの地獄のような就職活動の日々がフラッシュバックした。


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 あの頃の僕は人並みの青春すら送れなかったことをまだ恥じていた。だからエントリーシートの自己PR欄に書けることもロクになく、無手のまま戦場に挑んでいた。


 しかし僕のように特筆すべき魅力もない人間が面接会場に現れたところで大して食いつかれずに落とされる。だからどうにかして興味を持って貰うしかなかったのだが、空っぽの自分をアピールさせられる時間は僕にとって拷問だった。


 結局、誰からも興味を持たれない屈辱と自分の魅力のなさを強制的に再確認させられる苦痛に引き裂かれ、就活自体をやめてしまった。あそこは手札のない人間がのこのこ出ていい場所ではなかった。


 僕は息を深く吸う。胸の鼓動は早まっているが、決して不快ではない。


 確かに地獄の面接に似ているが、あの時に比べると無力感はない。ここにいる全員が僕という人間に……正確には僕が演じる坂小路澄夫にだが……強い関心を寄せている点が大きく違う。そして僕という存在を丸裸にしようと根掘り葉掘り問い詰めてくる。


 ああ、そうか。僕は嬉しいんだ。何者でもなかった僕がこれほどまでに誰かの興味の的になっていることが。

 倒錯した喜びが育ちかけた恐怖を麻酔のように鎮めた。僕はふっと息を吐いてから、少し寂しそうにだが穏やかに微笑んでみせた。


「……兄貴と仲ようないのとはちょいと違いますね」

 僕は座敷にいる全員を見渡すように、ゆっくりと言葉を紡いだ。胸襟を開いたように見せるために口調も崩す。


「立ち位置が被らんよう、自分でズラしたんですわ」

 皆、僕の言葉の続きを聞きたくて黙っている。


「確かに兄貴と同じ大学、同じ学部行ったら誰も何も言わんかったでしょう。でも次男の僕が無理してスペアになりに行く必要はないなと思たんです。いざって時のもう一本の柱になるように違うキャリアを模索したというか」


「せやったらまだ帰国してへんのはおかしない?」

 音条家の男はまだ食い下がる。

「留学を延長したんも本場でMBAの資格を取るためなんです。潰しが効く思て」


 思ってもいなかった言葉がスラスラと出てくる。

「……ああ、さよか。邪推して悪かったわ」


「何より僕は坂小路家が好きですから。解りづらくても、僕なりの愛なんですわ」

 その言葉を言い終えた時、座敷は水を打ったように静まり返った。だがほどなく堰を切ったように感嘆の声と拍手が沸き起こった。


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 破滅の大波は去った。

 心地よい達成感と役を演じきった役者のような疲労感に包まれ、高揚した気分を落ち着かせるために、僕は一人席を立った。


「失礼、少しはばかりへ」

 ひやりと冷たい空気が漂う廊下を歩き、化粧室の鏡の前に立つ。そこに映っているのは完璧な坂小路澄夫だった。その自信に満ちた表情、憂いを帯びた瞳。自分自身でさえどちらが本当の自分なのか、境界線が曖昧になっている。


 シテ業の危険性はこういうところにもあるのかもしれないな。

 鏡を眺めながらそんなことを思っていたら、静かに化粧室の扉が開く。そして音条家のあの男が入ってきて、僕のすぐ隣に立った。


「いやー、お見事やったね、坂小路さん。今日の主役はキミで決まりや」

「皆様に温かく迎えていただいたおかげです」

 僕は当たり障りのない返しをする。澄夫の仮面はもう外れない。


「それにしても大変ですなあ」

「……と言いますと?」

 僕が聞き返すと男はこちらに向き直ってにやりと笑った。そして声を潜め、悪戯を仕掛ける子供のように、耳元でこう囁いたのだ。


「他人の役をぶっつけ本番で演じるんは大変やろ、って言うてんのや」

 今度こそ全身の血が凍りついた気がした。

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