のっぺらぼうの嫁

赤澤月光

第1話

# のっぺらぼうの嫁


春の柔らかな風が頬を撫でる夜、私は終電を逃してしまった。会社の飲み会が長引き、疲れた足を引きずりながら裏道を歩いていた時のことだ。


「やめろよ、怖がらせるなよ」


暗がりの中から聞こえてきた男たちの声に、私は足を止めた。路地の奥で、数人の男が誰かを取り囲んでいる。好奇心と正義感が入り混じり、私は近づいていった。


そこで見たものは、私の想像を超えていた。


男たちが囲んでいたのは一人の女性だった。しかし、その顔には目も鼻も口もなく、ただ白く滑らかな肌だけがあった——のっぺらぼうだ。


恐怖よりも先に湧き上がったのは、彼女への同情だった。


「おい、やめろよ!」


私は思わず声を上げていた。男たちは一瞬驚いたように振り返り、すぐに逃げるように去っていった。


彼女は動かず、ただそこに立っていた。顔がないのに、どこか悲しげな雰囲気を漂わせていた。


「大丈夫?」


言葉を投げかけても返事はない。当然だ、口がないのだから。しかし、彼女はゆっくりと頭を下げた。お礼をしているようだった。


「家まで送ろうか?」


再び頷きがあり、私は彼女と並んで歩き始めた。不思議なことに、恐怖は全く感じなかった。むしろ、彼女の存在に心地よさを覚えた。


その夜から、彼女は時々私の前に現れるようになった。最初は驚いたが、次第に彼女の訪問が楽しみになっていった。言葉は交わせなくても、不思議と心が通じ合うような感覚があった。


彼女の名前は「ユキ」。私がそう呼ぶと、彼女は嬉しそうに身体を揺らした。表情はなくても、彼女の感情は確かに伝わってきた。


季節が移り変わり、私たちは恋人同士になっていた。友人たちは信じられないという顔をしたが、私にとってユキの存在は何よりも大切なものになっていた。


「ユキ、結婚しよう」


桜の舞う公園で、私は彼女にプロポーズした。ユキは静かに私の手を握り、その温もりで答えを伝えてきた。


結婚式は小さく、親しい人たちだけで行った。ベールに包まれたユキは、どの花嫁よりも美しく見えた。


今、私たちは小さなアパートで暮らしている。朝、目を覚ますとユキがそばにいる。顔のない妻が作る朝食は、いつも心温まるものだ。


時々、街で人々が振り返ることもある。しかし、私にとってユキの顔のなさは特別なものではなくなっていた。むしろ、その白い顔に私は無限の表情を見ることができる。


「おかえり」


言葉にはならないけれど、ドアを開けると彼女の気持ちが伝わってくる。


のっぺらぼうの妻を持つ生活は、確かに普通ではない。でも、この温もりと愛情に満ちた日々が、私にとっての幸せなのだ。


ユキの顔がなくても、私たちの間には何も欠けていない。むしろ、表面的なものを超えた、本当の絆があるのだと思う。


これからも、この不思議な縁を大切に生きていこう。私ののっぺらぼうの嫁と共に。

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