暗躍する者

 眼前の窓に広がるのは、どこまでも静かな闇。月と地球を結ぶ星間往還船の船体は、わずかな振動だけを伝えながら漆黒の宇宙を切り進む。遠ざかる月面の光は無機質だが、それは私の故郷であることに変わりはなかった。


 私は席に深く腰を下ろし、目を閉じた。船内に流れる空調音と、時折かすかに聞こえる電子音。どれも聞き慣れたはずのものなのに、今はその一つひとつが、地球という外側へ近づいていることを実感させた。


(地球へ、向かっている)


 任務での派遣はこれが初めてではない。だが、地球に降り立つのは今回が初めてだった。軌道上の監視拠点や月圏外縁での観測任務とは、意味も、空気も、まるで違う。かつて月人の祖先が辿り着いた場所。その大地に、私自身の足で降り立つ。それだけで、胸の奥がじわりと熱を帯びてくる。


(──魔力波形の観測)


 任務を告げられたのは数日前のことだった。地球の沿岸区域から、正体不明の魔力干渉波が立ち上ったという。しかし本来、地球には魔力場そのものが存在せず、魔力は発生しないものとされてきた。魔力の流れは月圏内に限られる。ゆえに、地球上で魔力波形が検出されること自体がありえないはずだった。


 ……少なくとも、表向きは。


 私の知る限り、かつての大戦以前に存在したとされる、魔法理論を礎とした旧文明の遺跡に起因する魔力的現象が、王国の記録には存在した。地球という魔力なき星に、なお魔法を根づかせようとした。かの文明が最後まで追い求めた夢であり、ある種の悲願だった。

 現在も、そうした遺跡の一部は地球各地に点在している。中には、地球環境下で魔力そのものを生成・循環させることを目的として設計されたと見られる構造物も確認されていた。

 かつて起きた災厄の引き金となったのも、そうした研究施設の一つだったとされている。

 だが、その詳細を示す記録の多くは、大戦の混乱とともに失われた。関係資料の喪失、関係者の行方不明もしくは戦死、そして意図的な情報遮断。何が起きたのかを正確に知る者は、今や王国にも連邦にも存在しない。真相は深い闇の中に沈んだままだ。

 ただひとつ確かなのは、それが月と地球との間に決定的な断絶をもたらし、魔力技術に関するあらゆる情報の封鎖と、調律局による沈黙の防壁の構築へとつながったということだ。


 王国は長年にわたり、地球各地に非公開の現地調査員を潜伏させてきた。異常波形の兆候があれば、地球連邦側に発覚する前に遺跡を発見し、発信源となる構造物を速やかに破壊・封印する。

 公的な記録に残らない作業。誰にも知られることのない任務。それが、私たち調律局のもう一つの顔であり、王国が密かに維持し続けてきた沈黙の防壁だった。


 報告書には、湾岸での工事中に閃光、機器停止、監視映像の乱れといった付帯現象が記されていたが、表向きにはすべて「インフラの老朽化による局所的な放電事故」として処理されていた。地球連邦の発表と、王国の記録の齟齬。それ自体が、何よりの兆候だった。

 観測された波形は過去に例を見ないほど明瞭で、しかも発信源は人目につきやすい都市近郊区域に位置していた。干渉の規模と複雑性から、既存の潜入網では対応が困難と判断された。


 そうして、特例措置として、本国から正式な調律官が派遣されることになったのだ。


《調査対象:地球圏・海浜第九環港市・旧星間連絡港区画周辺》

《目的:波形発信源の特定及び潜在的脅威の排除》

《担当調査官:アリスタルコス王国調律局 第二階位 特任調律官 シア=ルネ=スフィア》


 それが、私。

 シア=ルネ=スフィアに課せられた任務のすべてだった。


 窓の下、地球の外気圏が近づいてくる。熱圏突入までのカウントが、パネルの端に点滅していた。

 シアはそっと、自らの胸元に手をあてた。心音が、かすかに速くなっているのを感じる。


 冷静に、いつも通りに。自分は特任調律官であり、任務を遂行するだけだ。そう言い聞かせても、胸の高鳴りは完全には収まらなかった。初めて足を踏み入れる星。それが歴史的には月人の出自とされる場所であることが、意識の奥に微かな緊張を生んでいた。


 地球。その地は、月人にとって懐かしき故郷ではない。

 しかし、まだ一度も踏みしめたことのない、祖先の星。


 シアはそっと視線を落とした。

 窓越しに映る自身の姿が、わずかに揺れている。


 ◇◇◇


 無数の情報機器が発する微かな駆動音だけが響く、情報処理室。その中央に立つ男。林晶哉は、壁面のメインスクリーンに表示された報告書を、鋭い目つきで見つめていた。


《発生地点:海浜第九環港市・旧星間連絡港区画 第三湾岸工区》

《確認現象:青白い閃光/微振動/周辺機器の同時停止/監視映像の一部乱れ》

《工事関係者の目撃証言:閃光直後に耳鳴りと強い眩暈。機器全停止後、復旧に数分を要す》


(……ただの放電事故、ね)


 手元の端末を操作すると、メインスクリーンに表示されたデータが瞬時に切り替わる。空間磁場の異常、電磁共振の痕跡、機器への過剰干渉。それらしいデータは一通り揃っている。だが、それらは表層をなぞっただけの、カモフラージュに過ぎない。

 本当に警戒すべきは、もっと深いところにある。


 旧文明の遺跡。それも、恐らくは魔法に関連するものだ。

 この手の反応は決して偶然ではない。魔力干渉が発生するには、その源となる構造、あるいは装置が存在している必要がある。そして、それが稼働を始めたということは……工事による偶発的なものか、あるいは何者かがそれに触れてしまったか。

 連邦政府が公式発表した『放電事故』は、もちろん第七観測課が作成したカバーストーリーだ。現地の報道はすでに沈静化し、ネット上の噂も「フェイク動画」扱いでほぼ鎮火している。


「早めに踏み込んでおかないと、面倒なことになるな……月の調律局が嗅ぎつける前に」


 月、アリスタルコス王国。かつて地球を離れ、月に築かれた独立国家。その直属機関である調律局は、地球上に残存する旧文明の魔法技術を危険因子と見なし、排除こそが唯一の解決であるとする強硬な方針をとっている。

 地球連邦の方針とは正反対。こちらは封印・監視・制御、そして、可能であれば再利用。この思想の対立が、これまでも数多くの現場で火種となってきた。


 地球連邦特務観測局。それは地球連邦政府の中でも、存在そのものが公にはされていない機密機関のひとつだ。名目上は災害予測や特殊環境下での現象分析を行う研究部局ということになっているが、実態は異なる。

 その真の任務は、かつて地球上に存在した旧文明、特に魔法と呼ばれる超常現象に基づく遺物の監視、収集、隠蔽、そして再利用のための運用研究。地球上には存在し得ない力の名残を、管理可能な技術として再構築する。それがこの機関の最終目標だった。

 その中でも第七観測課は、現場対応における隠蔽と沈静化を専門とする部隊。言い換えれば、真実をなかったことにするための、汚れ仕事専門の前線組織だ。

 林晶哉は、その第七観測課で現場収束部隊を率いる男である。


 かつては軍情報局に籍を置き、戦地での特殊調査任務に数多く従事した経歴を持つ。衛星測位不能地域での隠蔽活動、超常物質の回収作戦、そして市民社会に露見しかけた数々の事象処理……。記録上存在しない任務の積み重ねが、今の彼の任務を支えている。

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