第4話

 いつものようにミジオを連れて家を出る。お香の匂いが残っている為か、距離を置かれている。登校に難儀するかも知れないと思ったが、声を掛けて誘導すれば問題なく寧ろ快適だった。ちょっとした思い付きから随分と有益な情報を掴むことが出来た。

 

 ――棚からぼた餅。ぼた餅ってどんなお餅なんだろう。

 

 文音はぼんやりと物思いに耽っていたが、周囲の様子に対して違和感を認める。初めてミジオを伴って登校した時のことを思い出す。しかし、好奇の視線はミジオではなく自分に向けられている気がした。


 気にしないように努めて廊下を進む。視線の先に人だかりを認めるも、彼らはすぐに蜘蛛の子のを散らしたかのように去っていく。人が集まっていたのは、校内新聞や部活動などに於ける大きな功績を貼り出す為に使われている掲示板の前だった。


 何か貼ってある。歩を進めて、文音は絶句する。


 ネットから拾ってきたであろう男女が卑猥に絡み合う画像。その顔が文音とミジオに差し替えられている。そんなものがA3サイズの用紙に印刷されて、貼り付けられていた。


 顔から血の気が引いていくのを感じる。耳鳴りがして、視界が白く明滅する。なのに、その画像だけは鮮明に視神経を汚していく。だらんと垂れ下がった醜いものや、乳房に乗せられた使用済みの避妊具、体液で濡れ光るくすんだ肌、肌に描かれた俗語――嫌悪感が吐き気に変わっていく。いつどこで撮られたのか、照れたようにはにかんでいる自分の顔がおぞましいものに感じる。


 散ったはずの人だかりが再集結して遠巻きに様子を観察している、そこから聞こえてくるひそひそとした悪意と好奇の囁きが、呪詛のように文音へ纏わり付いて、彼女をその場に縛り付けていた。


 すっ、と何かの影が視界の端を抜けた。


「くだらねえもん見て勃起してんじゃねえよ、雑魚オス共が。蹴り潰して去勢してやろうか」


 凛とした声音に顔をあげる。雪乃はその醜悪な紙切れに指を掛けながら、その殆どが男子である野次馬に対して啖呵を切っていた。


「ついでにどっかの暇なババア顔のブスもな」


 冷ややかに細められた雪乃の目、その視線を辿った先に蝿野が居た。彼女は顔を真っ赤にさせてそそくさと逃げていく。裂くようにして剥ぎ取り、姑息な悪意の塊をぐしゃぐしゃに丸める。それをポケットにしまい込んで、雪乃は文音の手を取った。


「顔色悪いけど、保健室で休む?」


「だい……じょうぶ……」


「そっか」


 踵を返す雪乃に対して、文音は慌てて袖を掴んだ。


「あの、ありがと……」


「なんのことだかもう忘れちゃったけど、お礼してくれるんなら今度ファミレス行く時、デザートおごりね」


「……うん」


 雪乃が勇ましく破り捨てた紙片、そこに刻み込まれた悪意を具現した画像。それは脳裏にこびり付いて離れなかったが、自分はまだ大丈夫だと文音は思った。


 背後で何も理解できないミジオが「ナサイ、ナサイ」と鳴いていた。


 

 蝿野による報復はすぐに始まった。それが最も効果的に文音を苦しめる方法であると知っていたのかは定かでないが、矛先は雪乃へ向けられていた。


 移動教室から戻ってみれば教科書もノートも水浸しにされており、体育の後には上履きがゴミ箱へと投げ込まれていた。


 証拠がある訳ではないものの、文音は蝿野の仕業であると断定していた。男子の恨みも買っているとは言え、彼らが直接的な敵意を抱くのは考えにくい。なじられて寧ろ喜んでいる者さえいるだろうというのが文音の見立てだ。


 雪乃の方も概ね同じ考えであるらしく「あのクソバエ、ガキかよ」と毒づいていた。


 文音の謝罪に対しても雪乃は気にするなと笑みを浮かべていたが、文音には却って心苦しかった。


 ――雪乃が気丈に振舞う程、蝿野は過激な手段を取るだろう。私に対してだってそうだったのだから。だったら、私は。


 昼休み、そうすることが当然といった様子で誘ってくる雪乃に対し、文音は首を横に振った。


「ごめん、今日はちょっと食欲ない」


 怪訝な、しかしどこか寂しげな表情を浮かべる雪乃の顔を見ていられず、教室から逃げ出す。飼育ゲージに閉じ込められているミジオが発する「ガチコ……ガチコ……」という鳴き声がどこまでも追い縋ってくる気がして、文音は息が続く限り駆け足を止めなかった。


 気付けば屋上へ至る階段を上っていた。踊り場で立ち止まった文音は、肩を上下させつつ、壁に背を預けてスマホを取り出した。


 ――しばらく、私に構わないで。


 身勝手な物言いであることは承知していた。あれこれ理由を告げれば、それを覆す為に言葉を重ねる、雪乃はそういう性質なのだ。


 程なくして「分かった」とだけ返信が来た。文音は逡巡の末、何も返さずにスマホを閉じた。


 ――やはり私は業人なのだろうか。だから周囲の人まで傷付けるのだろうか。


 黙して考え込んでいるところへ、耳障りな笑い声が近付いてくる。陰からぬっと顔を出したのは蝿野だった。平生は能面のように動きが乏しい老け顔に意地悪な笑みを浮かべている。


「……なに?」


 思わず言ってしまってから、存外に威圧的な声を出している自分に驚いた。それを表に出すまいと顔をしかめつつ、蝿野を睨み付ける。


 蝿野はニタニタと笑ったまま、「うーん、うーん」と何かを考え込むかのようなうなり声を上げる。不気味さに気圧されながらも、じっと睨んでいると、彼女はニチャと唾液の音が聞こえてきそうな歪な笑みを浮かべて言う。


「悪いのはアンタ。来週も楽しみ……」


 それだけ言って逃げていく。残された文音は悔しさに歯噛みしながらも、これで良いのだと考えた。満足するまで好きにさせておけば良い。相手せずにいればいずれ向こうが折れるはずだ。根拠などなかったが、時が解決するという希望に縋る他になかった。


 

 帰宅してすぐにお香を焚く。ミジオの声が遠ざかっていくと共に、この部屋だけは安心なのだという実感が湧いてきた。今の文音にとって、その感情は少しばかり厄介だった。抗うべき敵意や悪意のない状態。あれこれ考えてしまうのも無理からぬことだろう。


 気を紛らわせようと手に取った短編集も、この時ばかりは役に立たなかった。


 蝿野の不気味な笑顔、分かった、という雪乃からの無機質な返事、そうしたものが頭の中をぐるぐると巡っている。


 ――もっと刺激の強いものを。


 そう考えた文音は、爆裂ドットコムを開く。むき出しの嘲りや悪意。そうした言葉の羅列を網膜に焼き付けていく行為は、無為でありながらも気を紛らわすには丁度良かった。気になる情報も拾うことができた。ミジオ以外のハエモグラ男も女性に執着しているらしい。真偽ははっきりしないが複数人が同じような内容を書き込んでいた。


「お~ぅい」


 スマホを操作する手が止まる。父は留守にしていたはずだが、知らぬ間に帰宅したのだろうか。文音は首を傾げつつ、次の言葉を待った。


「お~ぅい……」


「お~ぅい、ガチコ……」


 ぎょっとする。父の声が突然にしてミジオのそれへと切り替わった。


 いや、そうではない。ミジオが父の声を真似ているのだ。


 嫌な予感が胸に広がっていく。ミジオの習性を考えるに、煙が苦手だからといって執着を捨てるとは思えない。かといって、声真似で気を引こうとするだけの知性もないはずだ。


 そっと部屋の扉を開ける。廊下にミジオの姿は無い。


「お~ぅい」


 鳴き声は風呂場から聞こえる。物音を立てぬように気を付けながら歩を進める。果たしてそこにミジオは居た。文音は叫びだしたくなるのを堪えて、スマホでその姿を撮影する。


「お~ぅい」


 父の声を真似をするミジオの短い腕の先には、文音の下着が握られていた。股間に生えた丸い突起物は今にも破裂してしまいそうな程に膨らんでおり、足元には木工用ボンドのような体液が広がっていた。


「ガチコ…………ガチコ……」


 どこかうっとりとしているようにも聞こえるミジオの鳴き声に鳥肌を立てつつ、文音はどこにも安心できる場所などないのだと思い知った。

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