ハエモグラ男と仲良くする法律
@zunpe
第1話
戦後、財閥解体に代わる権力分散の策として道州制が敷かれた日本。鳥取、島根、岡山、広島、山口、五つの県を統合した広島州には、他の道州どころか世界中を探しても同規模のものは一つと見つからない観光資源が存在している。
1984年に宇宙より飛来した巨大な種子が育った大樹『加棲呉利の木』。時に世界樹とも称されるその樹に成る奇妙な果実。それは自律する人型の果実であり、ハエを思わせる大きく黒い目、土や暗がりを好む性質、短い手足や尖った口元などの特徴から『ハエモグラ男』の名で呼ばれることとなった。
ハエモグラ男の体は二足歩行に適しているなど、人間の偽物といった形をしている。しかし当然ながら人間の言葉を解することはなく「ニジソ」「ナサイ」「ガチコ」といった意味のない鳴き声をあげるばかりである。
加棲呉利の木の付近に設けられた『泉南園』という広い公園には多数のハエモグラ男が生息しており、『アマアマ』と呼ばれる餌を与えるなどの交流が可能となっている。
アマアマは廃棄される食品の内、柔らかなものを選別し、砂糖水を吹き掛けて味付けした餌であり、ハエモグラ男の好物である。生ごみも同然であり、人間がそれを口にするなどまずないのだが、ハエモグラ男はアマアマを見つけると覆いかぶさるようにして、滑稽にもそれを独り占めにしようとする。加えて、尖った口元を使って不器用に捕食する姿は、間抜けでありながらもどこか不気味で、怖いもの見たさに訪れる観光客が後を絶たない。無論、加棲呉利の木を目当てとする客も多くあった。
観光収益は道州で最も高く、広島州は名実共に日本の顔となっていた。
だが、2020年代に入ってからは、円安の影響もあって外国人観光客が大幅増加、それに伴う観光公害の問題が表面化していった。
そうした状況下で迎えた2025年の夏、広島州知事選。何の間違いか、元迷惑系ヴーチューバーである屑野竜氏が当選。外国人観光客によるハエモグラ男への虐待を批難・防止するなどの活動をしていた屑野は知事の座についてすぐ「ハエモグラ男と仲良くする法律」を立法。その第五条十二項は「八百十万円以上の年収がある世帯から無作為に選んだ世帯に、一体のハエモグラ男を飼育する義務を課す」という内容であった。
宝神文音(たからがみ ふみね)。ハエモグラ男飼育世帯に選ばれた宝神家の一人娘である。歳は志学と一つを数えたばかりで、器量こそ良いものの何処かに陰を持つ少女だった。
ハエモグラ男の飼育が始まり、彼女の生活は一変した。
外面だけの父親はハエモグラ男飼育世帯に選ばれたことを誇らしげに喧伝するが、世話は一切しようとしなかった。母親はこれまで同様に仕事が忙しいと言って家庭を顧みようとしなかった。
必然的にハエモグラ男――手足が短いからという理由で父がミジオと名付けた宝神家の個体――の世話は文音が一人で担っていた。
賞味期限切れの食パンや、納戸の奥に眠っていたそうめん等に砂糖水をまぶしたものを与え、排泄物に代わって全身から滲み出る汚臭漂う体液を拭う為の土浴びをさせてやった。無論、甲斐甲斐しく世話をしたからといってミジオが懐くことはなかった。
「ニジソ……ニジソ、ナサイ、ナサイ」
そんな鳴き声をあげるばかりで、有るのか無いのかはっきりしない感情を読み取ることさえままならない。餌を与えればそれを取られんとして抱え込み、憎々しげにも見える顔でこちらを何度も確認する始末でさえあった。
「出来の悪い弟が出来たようなもんじゃないか。何だかんだ言っても可愛いだろう?」
写真や動画を撮影してSNSにアップロードすることぐらいでしかミジオに関わろうとしない父は、文音の苦労など知らずに言う。ハエを思わせる黒く大きな目、地層の様な柄を持つ矮躯、腐敗した果実を思わせるぶよぶよとした頭、否が応でも目に留まってしまう股間に生えた丸くて小さい突起物――全てが『弟』という言葉には結び付かない。だが、文音は心の内を言葉にはしなかった。
祖父から受け継いだ小さな土産店を営んでいた父は、円安に先駆けてインバウンド需要を捉え、団体客を狙った飲食店の経営を始めた。読みは見事に当たり、今では州内にいくつもの系列店を展開している。
それ以来だ。文音の父は「経済的に大きな成功を収めつつも、温かな家庭を築いている明るく朗らかで理想的な父親」という虚像に囚われてしまった。実のない言葉を紡ぐ父の姿は、「ガチコ」などと鳴くミジオと被って見えた。
――誰も彼も狂っている。ハエモグラ男などという植物なのか動物なのかさえはっきりしない不気味な化物を見物に来る観光客も、それを有り難がる広島州の大人達も、更なる共生を進めるべきだと無責任に声を荒げる太った州知事も、全員。
苦々しい顔で眺めているスマホの画面には、ハエモグラ男を刃物で傷付けた男が逮捕されたというニュースが映っている。
――この人もそうだ。みんな、みんな……ハエモグラ男のせいで、狂ってしまってる。
暗い顔でニュースを読み進める文音の耳に、父の声が届く。
「お~ぅい」
暗澹たる心持で聞こえない振りをしたが、父の声は執拗に階下から迫って来る。ミジオの事か、それとも何かの買置きが切れたのだろうか。
「どうしたの」
両親と話す時、実際以上に幼くなってしまう自分を嫌悪しつつ、文音は苛立ちをおくびにも出さずに訊ねた。
「遅かったじゃないか。ミジオが、ほら」
そう言って父が指した方向へ視線を送る。裏庭へ出る為のドアにミジオがへばり付いていた。
「さっきからずっと動こうとしないんだ。土浴びしたいんじゃないのか」
――そう思うのであれば自分で外へ連れ出して土浴びをさせれば良いのに。
文音は黙ったままミジオへ近付いた。軽く鼻を鳴らしてみるも、汚臭は余り感じられない。ハエモグラ男は怠惰な生物だ。ミジオも例外ではない。体液が滲み出していないのに土浴びをせがむことは有り得ないだろう。
「ねえ、ミジオ」
自分の名前を理解しているのか定かでないが、呼び掛けつつ近付いた。
「ガチコ、ガチコ、ガチコッ……」
小さく鳴き声をあげている。平生とは少し声色が異なり、興奮しているかのように思われた。湿っていて、熱っぽい。
――ハエモグラ男が興奮? ただの不気味な果実なのに?
文音は自身の所感を疑ったが、込み上げてくる生理的嫌悪感には抗えなかった。
「……土浴びの時間じゃないから、放って置いて良いと思う」
これ以上その「ガチコ、ガチコ」という鳴き声を聞いていたくなかった。
「でも、全然動いてくれないよ?」
「それ……は……!」
――知らない! 人一倍ハエモグラ男飼育世帯に選ばれたことを喜んでいたお父さんが全部やれば良いじゃない!
叫びたかった。
叫べなかった。酷く喉が渇く。文音はしばし下唇を噛んで俯いていたが、何とか「分かった」と搾り出し、ミジオに触れた。
「……ねえ、ミジオ。そこから離れて」
「ガチコ! ガチコッ!」
「何で……ねえ……!」
「ナサイナサイ、ナサイ、ガチコ……ガチコ……」
ミジオが下半身をドアに密着させたままで上体を捻って文音を見た。そのまま短い腕を伸ばし、彼女の胸に手を触れた。
「……っ!」
熱っぽく繰り返される「ガチコ」という鳴き声に対して募らせていた嫌悪感が一気にブワッと膨れ上がり、全身に鳥肌が立った。
ドアに向き直ったミジオが声を上げる。
「ガチコッ、ガチコガチコガチコガチコガチコガチコガチコ」
異様さに気圧されて何も出来ずにいると、不意にミジオが黙り込み、全身を小刻みにプルプルと震わせた。
「ガチコ……ニジソ……ニジソ……」
何事もなかったかのようにドアを離れ、和室の押入れへと戻っていく。
呆然としてニジオの背を見つめていた文音だが、父の声で我に返る。
「なんだこれ、きったねえ」
見れば、ドアに木工用ボンドにも似た液体がべっとりと付着していた。
「綺麗にしておくんだぞ。ミジオは文音の弟なんだから」
無垢に見える父の笑顔に、文音は心を殺して頷いた。
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