これは、神の器として生まれ、闇に堕ちた少年と──不死の魔女が紡いだ物語

夜桜満

第1話 死に酒場の噂話

 ここは魔導士の誇りと強さを象徴する帝国──フィエルテにある酒場。

 だが、ただの酒場ではない。

 壁には手配書、剥き出しの武器。集うのは皆、“お尋ね者”ばかり。


 夜になれば、酒と喧嘩と歌声が交差し、毎晩のように狂騒が始まるはずだった。

 だが今宵は違った。


 店内には客がたった三人。

 重く、湿った空気が満ちていた。


「エスポワールが滅んで十年……魔法の最強国家はフィエルテってことになったがよ。平和になるどころか、逆に争いばっかだ」


 酔いの回った中年の男が、隣の男の肩を叩きながら言う。


「魔導兵もピリピリしてるしな。最近は“黒魔導士”を生け捕りにしろって命令が出てるって話だぜ」


 二人は平民風の身なりながら、話す内容は物騒そのもの。

 男は手にしたグラスを煽り、ラム酒を喉に流し込んだ。


「黒魔導士ってのがさ……かつての王国、エスポワールの王子だったって噂もある」

「そんなもん、どこの国にもあるだろ。黒い噂ってのはよ──」


 ──ドンッ。


 会話を断ち切るように、彼らのテーブルに乱暴に料理が置かれる。

 それを運んできたのは、この店の亭主──ミネールだった。


 中性的な顔立ちに、腰まで届く桃色の髪。見た目こそ艶やかだが、その目元はどこか読めない。


「物騒な話はやめて、飲もう飲もう! 今日は客が少ないんだから、アンタらが稼いでくれなきゃ赤字だよ〜」

「それはいいけどよ……他の常連はどうしたんだ?」


 顎髭を撫でながら、男──ケスが辺りを見渡す。


 ミネールはくすりと笑うと、カウンター席の端にいる黒髪の青年をちらりと見た。


「さぁ……みんな“消されちゃった”んじゃない?」

「き、消された!? まさか魔導兵にかよ!?」

「さあね。そんなの知るわけないだろ。で、追加注文は?」


 ミネールは瓶を押し付けながら、営業スマイルを浮かべて迫ってくる。

 その圧に押され、ケスは逃げるようにカウンター席へ移動。青年の隣に腰を下ろした。


 隣の青年は、ケスに視線を向けることもなく、ワイングラスを口に運び続けていた。


「……お兄さんも、飲もうぜ? 今日はほら、俺らしかいないしよ」


 だが返事はない。


「なあ、聞こえてるのか?」


 ──バンッ。


 軽く肩に触れた、その瞬間だった。


 青年の身体がぐらりと揺れ、まるで操り人形の糸が切れたように──頭から机に崩れ落ちた。


 死んだようにカウンターに突っ伏した青年を、ケスが心配そうに覗き込む。


「……顔、真っ赤じゃねえか。こりゃ酔っ払いだな」

「あーあ、またですか……」


 ため息混じりに呟いたのは、酒場の亭主ミネールだった。


「この時期になるとさ、いつもこうなの。酒、弱いくせに無理して飲んで倒れるんだよ」


 そう言いながら、ミネールは青年の両こめかみに指先を当て、静かに呟く。


「黒魔法──皇女の癒し」


 指先から滲む闇が、不気味な黒い光を放った。だがその直後、倒れていた青年は何事もなかったかのように体を起こし、ふらりとカウンターに座り直す。


「……黒魔法って、あんた」

「そう。だからお尋ね者の溜まり場であるこの酒場の亭主ができるわけ」


 ミネールは悪びれもせず笑うと、青年がまたボトルに手を伸ばそうとしたところで、そのワインをさっと取り上げた。


「今日はもうダメです。は連続使用できないんだから」

「……うるせぇな。お前には関係ないだろ」

「あるんですよ、私は“知り合い”ですから」


 その言葉に反応したのか、ケスの隣にいた友人のコットがふらりとカウンターに近づく。


「知り合い? そいつ、あんたの?」

「昔からのね。……まあ、色々あって」


 コットがふと、青年の顔をまじまじと見つめた。


「……その目、初めて見た。鮮黄色せんおうしょくの瞳だ」


 ケスが声を上げる。


「えっ!? 皇帝以外に確認されてないっていう──あの!?」


 青年は返事をせず、ただ静かに、じっと彼らを見返す。


 その瞳は、まるで金細工のように美しく輝いていた。


「……とはいえ、俺も意味までは知らなかった。なんか特別って噂だけは聞いたけど?」


 ケスが首をかしげると、青年はふっと笑った。


「この瞳はね、どんな魔法使いよりも魔力量が高く、制御力も飛び抜けてる者しか持てない。世界で確認されているのは、俺を含めてたったの三人」

「……すげえ。ってことは、あんたも相当な……」


 その先を言いかけたコットを制し、青年は隣のミネールと一瞬視線を交わすと、微笑を浮かべながら言った。


「名は──クロム・エスポワール。今は、“クロム・オールド”と名乗ってるけどな」


 沈黙。


 ケスとコットの表情が、一瞬で凍りついた。


「まさか……滅びたエスポワールの……あの王子……?」

「しかも、黒魔導士として追われてるって噂の……」

「外見は噂と違って、怖くないな」

「クロム様は今、魔法で顔の傷を隠していますから」


 ミネールの言葉に、クロムは黙って目を閉じる。そして、自らにかけていた魔法を解除する。


 現れた素顔には、鮮黄色の瞳と整った顔立ち。

 だが、その美貌を断ち切るように、鼻筋を横断する刀傷と、右目の火傷痕があった。


 見ているだけで痛みを覚えるような痕跡だった。


 さっきまで騒いでいたケスも、コットも、言葉を失っていた。


 数秒の沈黙を破ったのは、コットだった。


「その傷……国が滅んだときのか?」

「ああ……」


 クロムは短く返し、ふと時計に目をやる。


「……随分と長居したな。ミネール、後は任せた」

「かしこまりました。じゃあ、お眠りいただきましょうか」


 ミネールが片手を掲げる。


「黒魔法──皇女の誘惑」


 酒場にふわりと漂う、甘く切ない果実の香り。

 ケスとコットの瞼が重くなり、カランとグラスを倒して二人はその場に崩れ落ちる。


「この人たち、どうします? 殺しますか?」

「いや……最近、少し殺しすぎた」


 クロムはつぶやき、ミネールに視線を向ける。


「黒魔法で、俺の記憶だけ消してくれ」

「かしこまりました。……でも、瞳の色は?」

「変えない」


 クロムは席を立ち、ミネールの問いに静かに答える。


「この瞳は──エスポワールの象徴だからな。俺が、王族だった証だ」

「変わりませんね。小さい頃から、ずっと」

「……もう、子供じゃない」

「ええ。でも私は、クロム“王子”として敬意を払います。……王と王妃に、よろしく」


 ミネールは深く頭を下げた。


 その背に別れを告げるように、クロムは静かに酒場を後にする。


 外はもう、肌寒い夜風が吹いていた。


 彼はコートの襟を立て、ひとり、滅びた祖国の方角へと歩き出す。


「……今日も、夜風が冷たいな」


 けれど。


 それより冷たいのは、

 もう二度と戻れない“場所”の記憶だった。

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