6章 裁くものと裁かれるもの

第23話 まだ仕事の時間だ

 冷たい風が、湿った洞窟の出口から吹き込んできた。


 外には、どこまでも灰色の空が広がっている。黒く濡れた岩肌は、鈍く光を反射し、無機質な風景を作り上げていた。濃密な沈黙と共に、五人はその灰の世界へと足を踏み出す。


 乾いた音が、足元からわずかに響く。岩と岩の隙間を滑る風は、まるで過去の残響のように頬を撫でて通り過ぎていく。


 誰もが口を閉ざしたまま、足を進める。

 ひび割れた地面を踏みしめ、岩の合間をすり抜けながら、一歩、また一歩と進んでいく。

 さっきまでの叫びや衝撃が、まだ耳の奥で鈍く残響しているようだった。


 その足音だけが、不自然なほど静まり返った空間に響いていた。


 誰も何も言わなかった。いや、言えなかった。


 疲れ切った表情――それ以上に、胸の奥に、言葉にできない何かを抱え込んだ気配が、背中に滲んでいた。


 その沈黙を破ったのは、唐突な足音の停止だった。


 数歩進んだところで、エミリオが立ち止まった。風が彼のマントを揺らす。仄かに湿った風に髪が揺れ、彼は振り返り、わずかに顔を上げた。


 その目に宿るものは、どこか遠くを見るような、かすかな決意だった。


「……私が女で失望しましたか」


 曇天の下、風に消え入りそうな小さな声だった。だが、その場にいた全員に、はっきりと届いた。


 足が止まり、誰かが息を呑む音がした。視線が一斉にエミリオに集まり、空気が凍りつく。


 エミリオは、視線を避けるようにほんのわずか目を伏せた。


 空気が、さらに重く沈んだ。


 エマが息を飲む気配を漏らし、顔をしかめた。


「驚きましたが、失望は……」


 彼女はぎこちなく答えた。口を開いたが、すぐに言葉が詰まる。喉が締めつけられたように、言葉は途中で崩れていった。


 彼女の声もまた、どこか頼りなかった。


「身体違う、はじめからわかる」


 エレノワが無表情で言う。風が、彼女の銀髪をふわりと揺らした。淡々と告げたその一言に、微かに空気が揺れた。


「気付くか。適当な事言うなよ」


 エマが眉をひそめ、やや苛立ち気味に言い返す。だが、その声音もどこか弱々しく、押し返すだけの力に欠けていた。


「エマ、アホ?」


 エレノワが首を傾げる。その仕草は真顔のまま、何の悪意もない。けれど、その無邪気な響きが、空気の張りつめた膜に小さな穴を空けた。


「誰がアホだ、このデカ女!」


 エマは苛立ち混じりにエレノワの脛を蹴った。だがエレノワはひょいと身を引いてあっさりと避ける。


「悪い、チビ」


 涼しい顔で言い返すその言葉に、エマの顔が真っ赤に染まった。


「私のどこがチビだ!」


「胸、平ら」


 即答するエレノワ。その無表情な一言が、沈黙していた空気を唐突に破った。


「うるせぇ!」


 エマの叫び声が、洞窟の奥にまで反響し、ひときわ大きく響いた。


 緊張の糸が、ふっと緩むようだった。

 どこか場違いなその騒がしさが、重苦しかった空気をわずかに揺らす。


 そのわずかな揺れが、誰かの胸の奥に染みこんでいく。


「エイミー様も、エレノワになんとか言ってくださいよ!」


 たまらずエマが助けを求めるように言った。


 だが、エイミーは何も答えない。彼女は前を向いたまま、歩みを止めずにいた。


 その背中は細く、しかし張り詰めていた。風に揺れる髪の奥、うつむき加減の顔には、何も読み取れない。


「……エイミー様?」


 その呼びかけに、ようやくエイミーは振り返る。その表情は、どこか遠くを見ているようだった。


「ごめんなさい。少し考えごとをしていました。何の話でした?」


 小さな声。灰色の空に吸い込まれるような、か細い音だった。


「無い。エマだけ」


 エレノワの一言に、エマが遠慮なく蹴りを返す。


 乾いた音が、足元の小石を弾いた。


 エイミーは小さく目を伏せた。エミリオの告白を聞いてから、彼女だけは一言も発していなかった。ただ、ひたすらに、何かを噛み締めるように呼吸を整えていた。


 その沈黙の中、ラジェールが声を落とす。


「ちょっと落ち着いたみたいだな」


 彼の声もまた、乾いた風に乗って小さく流れていった。だが、声の奥にあるものまでは誰にも読み取れない。まるで、すべての感情を脇に置いてしまったかのように。


「エミリオの話は後だ。まだ仕事の時間だ」


 きっぱりと、簡潔に、言い放つ。その言葉には、熱も怒気も含まれていない。ただ、目的を見据える者の声だった。

 まるで、それ以外のすべてを一度、棚上げにするかのように。


「――ケリつけに行くぞ」


 その短い言葉だけが、今の彼らを繋ぎ止める鎖だった。


 エマが困惑した表情でエミリオを見る。言葉を飲み込むようにして、彼女は眉を寄せた。


 エミリオは、何も言わずにラジェールの背中を追った。その歩みには迷いも焦りもなく、ただ真っすぐだった。


 エレノワも、エイミーも、無言のまま、その後に続く。


 誰も何も言わない。ただ、ざく、ざく、と足元の砂利を踏む音だけが、ひたすらに続いた。


 灰色の空。吹き荒ぶ冷たい風。


 乾いた風が、衣の裾をわずかに揺らし、岩の隙間をすり抜けていく。


 湿った足跡が小さく残り、すぐに風にかき消された。


 洞窟の闇を背に、五人は歩き出す。


 目指すは、伯爵の城――すべての始まりであり、すべてを終わらせる場所へ。

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