第10話 夜はキライ
消えかけた焚き火に、ラジェールが小枝を一本くべた。
ぱちり、と乾いた音がして、火がふたたび、ゆっくりと明るさを取り戻す。
その明かりの輪の中。彼とエマは、一定の距離を保ったまま、向かい合っていた。
ただの偶然か、あるいはそれぞれの警戒心の現れか――
いずれにしても、互いが互いの手の内を明かしていないことだけは、明らかだった。
空を漂っていた雲が、やがて月を覆い隠す。
星明かりも消え、あたりはひときわ深い闇に包まれた。
夜の気配は、ひどく静かで冷たい。
まるで、語られなかった言葉が風に溶けていくようだった。
「……夜は、キライ」
ぽつりと、エマが言った。
言葉に感情は少なかった。けれど、焚き火の炎よりも心に届いた。
ラジェールは少しだけ顔を上げ、炎を見つめたまま呟く。
「奇遇だな。俺も、だ」
その一言に、エマがわずかに顔を上げた。
「夜の闇は、全部を奪っていく気がするからな」
再び訪れる沈黙。
焚き火のはぜる音だけが、二人の間を繋いでいた。
「……私、本当の親を知らないんだ」
独り言のように、エマが語り出す。
「赤ん坊の頃に、両親は殺された。貴族だったか富豪だったか……今となっては、どうでもいい家系の子だったらしいよ」
「殺したのは“親父殿”。育ての親。……盗賊だった」
声に濁りはない。ただ淡々と語られるその過去に、重さだけがあった。
「親らしいことなんて、一度もなかった。
でも、“親父殿”は、殺したことだけはちゃんと教えてくれたよ。
私が四つか五つのときだったかな。ねぇ、物心ついたら、最初に教えられたのが『お前の親を殺したのは俺だ』って、笑えるよね?」
ぱちり、と焚き火が爆ぜた。
「盗賊としての技術は、たっぷり叩き込まれた。
夜に紛れて忍び込む方法。鍵の音で金属の種類を聞き分ける方法。
人を殺さずに気絶させる方法。――あと、殺す方法も」
その口調は変わらなかった。
まるで、それが自分の過去ではないかのように。
「五年前。その親父殿が死んだの。……真っ暗な夜だった。月も星も出ていない夜に、私は、独りになったの」
ラジェールは、何も言わなかった。
ただ、静かに焚き火を見つめていた。
「……俺も、似たようなもんだ」
低く、静かな声で返ってくる。
「他国の出身。名門の上級貴族の家の、末の息子。……だけど、まだガキだった頃、親が政争に巻き込まれて暗殺された」
「残された俺は、見せしめと、くだらない娯楽のために――剣闘士奴隷として売られた」
言葉には、感情が乗っていない。
それでも、過去の光景が焚き火の明かりに浮かぶようだった。
「奴隷として鎖をつけられた日も、初めて人を殺した日も……どこも陽の光が届かない、底の底みたいな場所だったよ」
エマは、何も言わずにその言葉を受け止めていた。
「……なんで、そんな話をしたの?」
「お前が、したからだ」
短い返答。けれど、その一言に含まれた真実は、言葉以上だった。
エマは少しだけ、目を伏せた。
「……エイミー様にも、こんな話はしてない。でも、誰かに……話してほしかったのかもしれない」
「奇遇だな。俺も、だ」
焚き火が、ぼうっと明るさを増す。
炎が、冷たい夜気の中にわずかな温度を灯した。
「たまにはさ、もっと“ガキらしく”してもいいんじゃないか?」
ラジェールの言葉に、エマは一瞬だけ眉をひそめた。
けれど、それ以上は何も言わず、立ち上がると近くの荷物から小さな薬包と湯を取り出す。
湯を注ぎながら、二杯の茶を用意する。
それはどこか、昔から知っていた動作のように自然だった。
「……寝れない夜はこれを飲むんだって。親父殿の、受け売りだけどね」
ラジェールの隣に座り直し、エマは一杯を彼に差し出す。
ふわりと立ちのぼる香草の匂い。
焚き火の煙とは違う、柔らかい香りが空気を満たす。
「お前のことはキライ。でも、少しだけ信用してやる」
短く告げて、エマはお茶を口に運ぶ。
それは、毒にもなりうるし、薬にもなりうる――
まるで信頼そのもののような、危うくもあたたかい仕草だった。
やがてカップを置いた彼女は、そのままラジェールの肩にもたれかかる。
「……このまま、寝かせてくれない?」
ラジェールは答えなかった。
ただ、微かに息を吐き、隣の重みに身を任せた。
「……なぁ、頭、撫でてくれ。寝つくまででいいから」
火の粉が小さく跳ね、夜の闇に溶けていく。
静けさの中、焚き火の音だけが二人を包んでいた。
エマは、ラジェールの膝に頭を預ける。
何も言わずに、目を閉じる。
その表情は、いつもの冷たさも強がりもなく――ただ、年相応の少女だった。
焚き火の明かりが、静かにその横顔を照らす。
ラジェールは黙ったまま、ひとつ息をついた。
「……こいつ、うまいこと言って見張りサボりやがったな」
その呟きには、苛立ちでも呆れでもない。
どこか、安堵に近い感情が滲んでいた。
火は、穏やかに燃え続けている。
冷たい夜の中で、わずかなぬくもりを保ちながら。
そして――翌朝。
エマがラジェールの膝枕で寝ている姿を目撃したエミリオとエイミーによって、
ラジェールは“エマ接近禁止”を正式に言い渡されることとなった。
その命令は、まるで宮廷通達のように厳粛に読み上げられたという。
……その夜、ふたりの間に何があったのか。
それを知っているのは――焚き火と、夜空だけだった。
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