第8話 試練の刻

人は愚かだ。


己の心の器が満ちていれば、人のために手を差し伸べることもあろう。


だが、満たされぬ者は、己の欲に飲まれ、行動が変わる。


古の性善説では、井戸に落ちんとする子を見れば咄嗟に救うと説く。


されど、現代の輩は、さめざめと機を手にし、事の顛末を冷ややかに眺めるのみ。


人の心は、置かれた場によってくるくると変わるもの。それが人の性だ。


駒吉は、かつての己を知っていた。


不器用で、見た目も貧相、店で罵られ続けた小僧の自分を。


松吉や文吉の手代の才を仰ぎ見つつ、己は彼らに及ばぬと心穏やかに務めていたはずだった。


竹皮の包みを胸に抱き、嫌われれば小判が生まれると信じた日から、彼の心は変わった。


道祖神の力は、神の恵みか、呪いか。駒吉はそれを知らぬまま、堂々と振る舞い、店の問題を指摘することで名声を得た。


だが、その名声は、己の内に潜む欲の芽を静かに育てていた。


ある日、和泉屋の掛け払いが刻限に間に合わず、店は騒然となった。


番頭は松吉、文吉、駒吉を呼び、「この事態を収めよ」と命じ、姿を消した。


和泉屋の小僧が金子を手に駆け込んできたが、番頭不在ゆえ受け取れず、店は混乱に陥った。


文吉は帳簿に記録し、翌日口添えすると約束。松吉は一時預かりを提案し、文吉も保証を申し出た。


駒吉は無関心を装い、帳簿に目を落としていたが、内心では別の思惑が渦巻いていた。


店の裏で、駒吉は番頭と和泉屋の小僧の会話を耳にした。


「この試練は、わしの補佐を選ぶためのものだ」と番頭が漏らした一言が、駒吉の心に火をつけた。


松吉と文吉、兄とも慕う二人に手が届く位置に己があると気づいた瞬間、悪魔の囁きが響いた。


「この好機を逃せば、己は再び小僧の影に埋もれる。いや、今なら彼らを超えられるかもしれぬ。」


かつての駒吉なら、己の足ることを知り、欲を抑えた。


だが、道祖神の力に浴し、店で名を上げた今、欲の底が抜け落ちていた。


注意され、怒られることを恐れ、引っ込み思案だった男は、竹皮の呪いによって変わった。


嫌われれば小判が生まれる。


それゆえ、怖いものなどないと、堂々と不満をまき散らし、店の者から評価を得た。


だが、その力は神の恵みではなく、己を縛る呪いだった。


駒吉はそれに気づかぬまま、さらなる高みを目指し、愚かな一歩を踏み出した。


「この金子を隠し、翌日わしが『発見』すれば、松吉も文吉も出し抜ける。番頭の補佐はわしのものだ。」


駒吉はそう目論み、夜半、帳箪笥から金子を別の場所に移した。


竹皮を無意識にさする手は、むなしく、寂しい音をたてていた。


物陰からその姿を見ていた助七の目は、驚きから軽蔑、そして怒りに変わった。


駒吉は気づかず、胸の高鳴りを抑え、部屋へと戻った。

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