第1話 はじまりの雨



バリン、と甲高い音を立てて割れた。

床に散らばったのは、2人で買ったお揃いのグラスだった。


「なんでそうなるんだよ!!!」


気づいたときには、私は床に倒れていた。

口いっぱいに鉄の味が広がる。頬がジリジリと焼けるように痛い。

――ああ、殴られたんだ。


どうして。いつから、こうなってしまったんだろう。

頬の痛みよりも、胸の奥のほうがずっと痛い。

心が、ずたずたに裂けていくみたいに。


「どこにも……いかないでくれ」


抱きしめられる。服を掴む腕は強いのに、その声は今にも消え入りそうに小さかった。


滲んだ視界を閉じる。

思い出すのは、なぜだかいつも、幸せだった頃の記憶だ。


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


彼と巡り会ったのは、雨の日だった。

傘を忘れて、大学の玄関で空を見上げる。止む気配のない雨音が、灰色の空から途切れなく降り注いでいた。


「もう、走るしかないか」


覚悟を決めて飛び出した瞬間、頭上に柔らかな影が落ちた。雨の音が遠のく。

見上げると、背の高い男の人が傘を差し出していた。


「濡れるよ」


「え……すみません」

「傘、ないの?」

「忘れちゃって……」

「今日、雨の予報じゃなかったのにね。一緒に入る? 嫌じゃなければだけど」


少し照れたように彼は言った。


大きな傘だと思ったのに、2人で入ると肩が触れそうなくらい近い。

彼の名前は――桜田晴人。2歳年上の先輩だった。


たわいない話をしながら歩くうちに、鞄についたパンケーキのキーホルダーを彼が見つける。

「甘いもの、好きなの?」

「好きです。どうしてわかったんですか?」

「それ」


指先の先にある小さなキーホルダー。

思わず笑って、「これを見ると、幸せな気持ちになるんです」と言うと、晴人は優しく笑った。


「美味しいパンケーキの店、知ってるんだけど……今度、一緒にどう?」

「えっ……ぜひ、行きたいです」

「じゃあ、決まりね」


肩が触れた瞬間、胸の奥が熱く跳ねた。気づかれませんように――気づけば、そう願っていた。



「あ、これ!甘くて美味しいですよ」


私はそう言って、いちごミルク味の飴を鞄のポーチから取り出して、差し出した。昔から好きで、よく持ち歩いている飴だった。


彼は少しの間、飴を見つめてから微笑み、静かに受け取った。


「これ、俺も大好きなんだ」


耳元で聞こえるその言葉に、胸がときめく。

袋を開けてひと粒を口に放り込むと、やわらかな甘さにほどけるような酸味が広がり、思わず頬が緩んだ。


雨粒のリズムは静かに遠ざかり、空の色が淡く澄んでいく。

ポーチの中のひと粒のいちごミルクの飴を見つめた。

その甘さが、ふたりの始まりをそっと告げているように思えた。



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