第14話 扇を射る者──与一、夜明けの矢
屋島の戦いは、
嵐の中の奇襲が功を奏し、
源氏の優勢で進んでいた。
平家は、
屋島の館に籠もり、
海上からの攻撃を警戒している。
義経様は、
海上での決着を目指し、
兵を進めていた。
戦は膠着状態に陥り、
数日が過ぎた。
私たちの陣は、
平家の館を海上から見据える場所に、
船を停泊させていた。
海風が、
肌を刺すように冷たい。
そんなある日の朝、
夜が明けきらぬ薄明かりの中、
平家の船が、
一隻、
ゆっくりと沖へと現れた。
その船には、
一人の女武者が立っていた。
彼女は、
船竿の先に、
美しい扇を掲げた。
ざわ、と。
源氏の陣に、
どよめきが広がった。
「扇の的……だと?」
「平家め、我らを挑発しているのか!」
兵士たちの間に、
怒りと、
困惑が入り混じる。
義経様もまた、
その光景を、
じっと見つめていた。
彼の顔は、
感情を読ませない。
だが、
私は、
彼の瞳の奥に、
静かな怒りが宿っているのを感じた。
扇の的。
それは、
平家が、
源氏の武士に、
「射てみよ」と、
あからさまに挑発しているのだ。
もし、
誰も射ることができなければ、
源氏の士気は地に落ちるだろう。
だが、
この距離で、
この風の中で、
扇の的を射抜くなど、
至難の業だ。
義経様は、
郎党たちの中から、
一人の若者を選んだ。
那須与一(なすのよいち)。
まだ若いが、
弓の腕は、
郎党の中でも、
群を抜いていた。
彼は、
義経様の前に進み出ると、
深く頭を下げた。
「与一。
そなたに頼みたい。
あの扇を射抜いてみせよ」
義経様の声は、
静かだったが、
与一には、
その言葉の重みが、
ひしひしと伝わっただろう。
与一の顔は、
青ざめていた。
彼の額には、
冷や汗がにじんでいる。
(そら、怖いよな……)
私は、
彼の気持ちが、
痛いほどよくわかった。
この一射に、
源氏の士気が、
そして、
もしかしたら、
この戦の行く末までが、
懸かっているのだ。
「は、はい……」
与一は、
震える声でそう答えると、
弓を手に取った。
彼の手は、
小刻みに震えている。
彼は、
弓を構え、
扇の的に狙いを定めた。
(はずせば、終わりだ……
なのに、どうしても手が震える。
俺はただ、逃げたいだけなのか……?)
与一は、
心の内で、
そう呟いた。
恐怖と、
重圧が、
彼の全身を襲う。
だが、
彼は、
それでも、
矢を放つことができない。
義経様は、
そんな与一を、
じっと見守っていた。
彼の顔には、
わずかな焦りが浮かんでいた。
(義経様も、
緊張してるんや……)
私は、
そっと、
与一の隣に、
歩み寄った。
与一は、
私の存在に気づき、
チラリと私を見た。
彼の瞳は、
恐怖で揺れていた。
私は、
彼に向かって、
小さく、
しかし、
はっきりと、
言った。
「大丈夫や。
あんたなら、できる」
私の言葉に、
与一は、
わずかに目を見開いた。
彼は、
まだ幼い私を見て、
戸惑っているようだった。
私は、
そっと、
与一の手を握った。
彼の手は、
冷たく、
汗で湿っていた。
「あんたは、
一人じゃない。
みんなが、
あんたの矢を見てる。
義経様も、
私も、
みんなが、
あんたを信じてる」
私の言葉に、
与一の手の震えが、
わずかに止まった。
彼は、
私の目を見つめ、
そして、
小さく頷いた。
彼の顔に、
少しだけ、
力が戻ったようだった。
与一は、
再び、
弓を構えた。
彼の目は、
扇の的を、
じっと見据えている。
彼は、
深呼吸を一つすると、
集中力を高めた。
風が、
強く吹き荒れる。
彼の体が、
その風に、
わずかに揺れる。
刹那、
矢が放たれた。
ヒュン、と、
風を切る音が響き渡る。
矢は、
一直線に、
扇の的へと向かう。
誰もが、
息を呑んで、
その行方を見守った。
矢は、
扇の要(かなめ)を、
見事に射抜き、
扇は、
くるくると舞いながら、
海へと落ちていった。
静寂。
そして、
数瞬の後、
どっと、
歓声が沸き上がった。
「やったぞ!
与一がやった!」
「見事だ!
那須与一、見事な腕前だ!」
兵士たちが、
歓喜の声を上げる。
義経様も、
静かに、
しかし、
深く頷いた。
その顔には、
安堵と、
そして、
勝利への確信が浮かんでいた。
与一は、
その場で、
膝から崩れ落ちた。
彼の顔には、
安堵と、
そして、
極度の緊張から解放された、
疲れが浮かんでいた。
私は、
そっと彼の肩を叩いた。
「よかったな。
あんた、
ほんまにすごいわ」
与一は、
私を見上げると、
涙ぐみながら、
小さく頷いた。
彼の瞳には、
恐怖と、
誇りが入り混じっていた。
彼は、
この一射に、
自分の全てを懸けたのだ。
私は、
彼が、
英雄の孤独を、
少しだけ、
味わったのだと感じた。
屋島の戦いは、
まだ続いている。
だけど、
この一射は、
源氏の士気を高め、
平家を動揺させたに違いない。
私たちは、
勝利へと、
一歩、
また一歩と、
近づいている。
「歴史が彼を殺すというなら──私は、彼の孤独を殺したい。」
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