まみの森奇譚

tonop

【一〇月二四日―――仏滅】

「ヒキカエセ」

 ふいに響いた警告の声。脳内でつくられたものか、ゆく手を阻む草木の葉擦れが聞かせたのか。

「……気にするな!」

 口中で自らを叱咤した利夫は、つととまった斜面の両足を再始動させた。

 高鳴り続ける鼓動のゆえんが、「期待と怖れ」相反する二要素からであることは承知していた。それでも後者の存在は意識の裡から排除しようと、幼心は必死に努めていた。


 祖父の書棚にあった目新しい一冊。開いた中の一ページに載っていた“あれ”は、利夫の関心を盛大に惹いた。そして、すぐさまつき従った思惑―――、

“あれ”はもしかしたら、あそこにあるんじゃ……。

 思い立った頭がはじめて探索に入らせたのは、先日の遠足翌日。日曜日。

 幸運にもたいした労力を費やさずして、利夫の眼は“あれ”らしきものを捉えた。―――と同時に、鼓膜もが奇妙な音を拾った。

“……フウ~~ン……ヴ~~~……ウウ~~ン……ヴ~~~……”

 繁みの隙間から流れ出てきたそれは、ナニモノかの、啼き声のような、唸り声のような。

 時を待たず、

 んっ……動いてる。

 一つ、二つ……気配は増えてゆき―――。

 ……近い? 

 ……えっ、上からも?

 視認できない相手は……犬?

 一つの推測を出した利夫の知識に、しかし当然のごとくあった。―――犬は木になどのぼらない。それに、このあたりに野良犬など、いはしない。

 とはいえ、そうでなければ……。

 あの噂は、やっぱり本当のことだったのか……。

“……フウ~~ン……ヴ~~~……ウウ~~ン……ヴ~~~……”

“ヴ~~……フウ~~ン……ウユ~~ン……ヴ~~……”

“ウワ~~ン……ウォ~~ン……ヴ~~……ヴ~~……”

 見えない怖れは、“あれ”が真に目的とするものなのか確認させるときを、たやすく彼から剥ぎとった。

 落ち葉の深く重なる傾斜を猛然と駆けおりた足が、すべることも、樹根の乱舞にとられることもなかったのは奇跡だった。


 気のせいだったんじゃ……。

 鬱蒼とした情景が聞かせ、感じさせた、幻の音、幻の気配だったんじゃ……。

 その証拠に、噂に聞くようなモノの姿など、なに一つ視界には入り込まなかった。

 初探索からの日々が後悔の念も携えて思わせ、「将来博士になる」の信念は、当時の弱気を責めもした。

 加えて、「あれは目的のものに間違いない」という、手中にできなかったからこそ確立していた確信が、再潜入を決心させた。

 もし万が一、また同じ体験に見舞われたとしても、採取してすぐ引き返せば大丈夫。

 根拠の薄い自信も、彼にはあった。


 あの日よりも明るいうちに。の意図から、利夫は午前中の授業で終わる今日の土曜日を選んだ。初探索から六日後のこと。

 時間的にもっと余裕のある明日の休日を待たなかったのは、祖父との山行の予定が入っていたからだった。

 目算通り、“あれ”とおぼしきものは、はたしてあのときと同じ場所にあった。

 この地点に到達するまで、幸い、妖しい音や気配が利夫にふりかかることはなかった。―――が、それも目的物の前にし、地面へ両膝を突いたときまでだった。

“……フウ~~ン……ヴ~~~……ウウ~~ン……ヴ~~~……”

 先よりも遥か近くから聞こえた。

 にわかに追従した、

“カサカサカサ……”

 落ち葉を擦るような音とともにナニモノかが移動する空気も、固まった利夫から遠くはなく、やはり、一つ二つと増し―――。

 気のせいじゃなかったんだ……。

 退けようとしていた怖れにたちまち全身を占拠された利夫の眼は、すると、下草の向うを横切る黒影をとり込み―――。

 それはそのもの自体が黒かったのか、太陽をさえぎる高木類がそう映したのか。

 正体を解き明かそうという意思など働くはずもなく、利夫は反射的に、目前の“あれ”をぎゅっとつかみ、勢いよく引き抜いた。普段では必ず心がける、「丁寧に」の意識が消え失せていたのは無理からぬことだった。

“ウッ!”

 呻きが利夫の口からほとばしったのは、立ちあがった刹那だった。

 途端視界を失った彼が意識を飛ばす間際感じたのは、かつて経験したことのない激臭のみだった。

 落ち葉の絨毯が、小さな全身を受けとった。


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