第11話『記録の器、語りの種』
――都市の空気が変わっていた。
微細な、けれど確実な揺らぎ。それは数値にも構文にも現れず、ただ人々の“語り”の中で蠢いていた。
澪は地下の“記録室”でその揺らぎを感知していた。壁一面に設えられた非接触式記録端末は、蓮華の語り断絶前に記録された残響を保管している。その語りは断ち切られていたはずだった。感染を防ぐため、語られず、引用もされず、ただ沈黙の中に眠っていた。
――なのに、何かがおかしい。
「……これ、誰かが見てる?」
澪は端末のログを確認した。外部アクセスはない。再生もされていない。記録は閉ざされたまま、構文との接触はゼロ。だが、語り波形に“揺らぎ”が走っていた。
まるで記録そのものが、自律的に語り始めているようだった。
数日後、異変は顕在化する。市民の一人――名もない配信者が都市端末から、“語り鬼ではない語り手”として覚醒した。
彼女が発した語りは、蓮華と酷似していた。直接の引用ではなく、記録に触れたわけでもない。
それでも、語りの波形が“蓮華の残響”と一致していた。
氷室が慌てて澪に連絡を寄越した。
「澪、記録、どうなってんだ? 誰も触ってないって……お前言ってたよな?」
「言った。でも違った。これはもう……語りの器になってる」
「……は?」
「蓮華の語りは、語られた瞬間に“感染”した。でも、私がそれを語らずに記録したことで、“触れてしまった者”の中で芽を出した。静かに、誰にも気づかれずに……」
氷室は沈黙した。そして、何かに怯えるように囁いた。
「澪、お前が語らなかった語りが、誰かの語りになってる。
それってもう、語り鬼の再構文だろ……」
澪は目を伏せた。
“語らないことで守る”はずだった記録が、無自覚な語り手を生み出し始めている。
蓮華の語りは、“語り鬼の構文”としてではなく、“誰かの語り”として新たな芽を出した。
都市は静かに感染していた。誰もが気づかぬまま、語りに触れていた。
そして澪は、語るべきか、語らないままでいるべきか――
選ばなければならなかった。
語りは、記録されただけで終わらない。
器に宿った種は、いつか芽吹くのだ。
雨が降った。都市第Z層の天井──レコード端末群の冷却管が、天井の音響板に反響を放っていた。澪は静かに記録室の中央に立ち尽くしていた。
語っていないはずの蓮華の語りが、外へと漏れていた。
その日は異様だった。市民たちの話し言葉が変化し始めていた。文章の終わりに、口癖のような構文尾が滲んでくる。感情が動くたび、言語ではなく“残響”が先に口を出る。
まるで蓮華の語りに触れたような語り手たちが、自らの語りで都市を塗り替えていた。
「これは……語り鬼じゃない」
澪の端末が示す感染波形は“構文崩壊型”でも“断絶構造型”でもなかった。
それは“蓮華残響型”──断絶を受けた語りの記録が、自然発酵したように都市の語彙に混ざっていく形。
──語らずに記録した。それだけだった。
なのに、語りが拡張された。言葉にならない記憶として、語尾として、夢の振動として、誰かの内側で芽を出してしまった。
「語らないことが……語りになってる」
澪は耳元にノイズキャンセルをかける。
けれど収まらない。“語りに触れていないはず”の記録が、都市の息遣いの中で循環している。
---
氷室がやってきたのは夜明け近くだった。
顔は青ざめていた。手元の端末には“市民語彙逸脱アラート”が記録されている。
「お前の記録、何人に染みてるか知ってるか?」
「……知ってる。触れられてないのに、影響が出てる」
澪は記録端末に目を向ける。その波形は脈のように生きていた。
語りの断絶は、死ではなかった。
語られなかった蓮華の語りは、都市の隙間に吸い込まれ、誰かの語りの形になっていた。
「澪、お前が語らなかった語りが、誰かの語りになってる。
それってもう……語り鬼の再構文だ」
澪は答えなかった。
けれど心の中で、ひとつの語りが芽吹いているのがわかった。
誰かの無意識が、彼女の保管した記録から“語られてしまった”。
語りは、語られなくても届いてしまう。
語らない語りは、静かに器に沈み、いつか芽を出す。
澪は息を吸った。
そして、都市全域に向けて、断絶ではない語りを用意し始めた。
>「語りを断つことが、語りを残すことになるなら。
> 私は、語りを記録する器になる。
> 誰かが語られてしまうなら、その語りを守り続ける」
次の章では、“語り断絶者”が語らないことで語り鬼を再構文化する。
語りの器と記録と残響が、都市をもう一度染めていく。
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