第1章『色彩のない日々』
第2話
ピンポーン、と軽やかなチャイムの音が、朝の静寂を破った。
私は車椅子の上で身じろぎもせず、窓の外に広がる灰色の景色を見つめていた。母が「はーい」と玄関へ向かうスリッパの音。そして、聞こえてくる。
「おはようございまーす!凛、準備できてる?」
弾むような、太陽みたいな声。桜井瑠璃子の声だ。
この声が聞こえると、私の一日は強制的に始まる。
足音が近づいてきて、遠慮なく私の部屋のドアが開けられる。
そこに立っていたのは、陽だまりそのものみたいな少女だった。廊下の光を背に浴びて、少し色素の薄い髪が蜂蜜のように透き通り、柔らかな輪郭を作っている。ふわりと肩のあたりで揺れるその髪を見るたび、昔、練習後に二人で並んで髪を乾かしたときのことを思い出す。
「凛、おはよ。今日はちょっと湿気すごいね、髪まとまる?」
瑠璃子は当たり前のように部屋に入ってくる。大きく丸い、感情豊かな栗色の瞳が、心配そうに私の顔を覗き込んだ。少しだけ垂れた目尻が、彼女の人の好さを物語っている。彼女の放つ生命力そのものが、今の私には少しだけ眩しすぎた。
彼女はいつも通り私のクローゼットを開け、手際よく制服を取り出す。淡いピンク色のカーディガンから、ふわりと甘いシャンプーの香りがした。夢の中で感じたのと同じ、けれど今は現実の重みを伴う香り。
「ほら、ブラウス。ボタン、留めてあげよっか?」
「……自分で、できる」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。瑠璃子の動きが一瞬止まる。その栗色の瞳が、悲しそうに揺れたのを私は見逃さなかった。けれど彼女はすぐに、「そっか!ごめんごめん」と笑って、ハンガーにかけた制服をベッドの上に置いた。
その献身と、変わらない明るさが、凛には重荷であり、同時に唯一の支えだった。
彼女がいなければ、私はきっと、この部屋から一歩も出られない。制服に着替えることも、学校へ行くことも、すべてを諦めてしまうだろう。彼女の存在は、私がかろうじて社会と繋ぎ止められている、最後の細い糸だった。
けれど、その糸に手繰り寄せられるたび、私は自分の無力さを痛感させられる。彼女の優しさが、私のプライドを少しずつ削り取っていく。
「じゃ、下で待ってるね」
瑠璃子はそう言って、ぱたぱたと部屋を出て行った。
残されたのは、彼女のシャンプーの甘い香りと、何もできない私の、色のない静寂だけだった。
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