第2話 仮面夫婦の朝食

朝の光が障子越しに差し込み、静かに部屋を包み込む。瑞希は新しい一日の始まりを告げる鳥の声に、ゆっくりと目を開けた。隣に一真の気配はない。すでに彼は仕事に取り掛かっているのだろう。昨日の夜の決断が、まるで夢だったかのように現実離れして感じられた。しかし、布団から出た足の裏に触れる冷たい床板と、部屋に漂う伽羅の微かな香りが、それが紛れもない現実であることを告げていた 。

身支度を整え、意を決して部屋を出る。旅館の廊下は磨き上げられ、足元からひんやりとした木の温もりが伝わってくる。清掃されたばかりの畳からは、微かに草の香りが漂い、瑞希の心を落ち着かせた。ふと、昨夜一真に抱き止められた時の体温が蘇る。あの瞬間、胸の奥に灯った微かな火種は、今も消えることなく燻っていた 。

広々とした食堂からは、朝食の準備をする音が微かに聞こえてくる。味噌汁の出汁の香り、焼魚の香ばしい匂い、そして卵を溶く軽やかな音。全てが、これまでの瑞希の生活とはかけ離れた、温かく、穏やかな音だった 。

「あら、瑞希さん、おはようございます」

その声に振り返ると、そこに立っていたのは、花邑良子。花邑旅館の女将であり、一真の祖母だ。白髪をきっちりと結い上げ、背筋を伸ばした姿は、凛とした品格に満ちている。しかし、その瞳の奥には、すべてを見透かすような、深く優しい光が宿っていた。彼女の顔には、この旅館の歴史が、そのまま刻まれているかのようだった 。

「おはようございます……良子さん」

瑞希はぎこちなく挨拶を返した 。良子は、瑞希の戸惑いを察したように、ふわりと微笑む 。

「慣れないでしょう? でも、心配いらないわ。すぐにここが、あなたの場所になるから」

良子の言葉は、瑞希の凍えきった心に、温かい陽光が差し込むようだった。瑞希がずっと探し求めていた「場所」が、ここにあるのかもしれない。東京での孤独は、まるで深い海の底に一人沈んでいるかのようだったが、良子の言葉は、その海面に差し込む一筋の光のように感じられた 。その言葉だけで、瑞希の胸に、確かな安堵が広がった 。

「さあ、朝食にしましょう。一真ももう来ていますよ」

促されるまま食堂へ入ると、すでに一真が席に着いていた。彼は瑞希に一瞥をくれると、すぐに視線を朝食へと戻した。その横顔は、昨夜と変わらず冷静で、何を考えているのか読み取れない。新婚初日の朝食とは思えないほどの、ぎこちない沈黙が流れる 。

食卓には、湯気の立つご飯、旅館で手作りされたであろう味噌汁、そして丁寧に焼き上げられた鰆が並んでいた。箸を取ろうとした瑞希の手が、一真の視線を感じてぴたりと止まる。彼は無言で、瑞希の分のご飯を小鉢によそった。その不器用な優しさに、瑞希の胸が微かに揺れる 。

「いただきます」

瑞希が小さな声で言うと、一真も静かに箸を取った 。一口食べると、味噌汁の優しい塩味が口いっぱいに広がり、胃の腑にじんわりと染み渡る。鰆はふっくらと焼き上げられ、皮は香ばしく、身は箸で簡単にほぐれる。その淡い塩味が、瑞希の舌の上でとろけた。一つ一つの料理に、作り手の温かさが込められているのを感じた 。

「瑞希さんは、今日からこの旅館の手伝いをしてくれます」

良子が、穏やかな声で瑞希を紹介した 。一真は相槌を打つこともなく、ただ黙々と朝食を口に運んでいる。その様子に、瑞希は改めて「仮面夫婦」という現実を突きつけられる。愛のない結婚。形式だけの関係。それでも、この場所で、瑞希は「生き直す」と決めたのだ 。その決意は、まるで枯れた大地に根を張る小さな草のようだった。たとえ今は頼りなくとも、いつかきっと、ここから立ち上がってみせる 。

「最初は慣れないことばかりでしょうけれど、焦らず、あなたのペースでいいからね」

良子の言葉が、瑞希の心を和ませる 。彼女の視線は、瑞希と一真の間を、まるで橋渡しをするように行き来しているように見えた。良子は、二人の間に漂うぎこちなさを、きっと見抜いているのだろう。しかし、それを咎めるでもなく、ただ優しく見守ってくれている。その温かさが、瑞希にとっては何よりもありがたかった 。

朝食後、瑞希は良子に連れられ、旅館の中を案内された。客室の掃除、備品の補充、庭の手入れ。一つ一つの作業は、瑞希にとって初めてのことばかりだった 。最初は箒の持ち方も、雑巾の絞り方もぎこちなく、何度も良子にやり直された。慣れない正座での拭き掃除は、すぐに膝が痺れ、旅館の広さに溜息が出た。しかし、東京での仕事が、まるで歯車の一つとして消費されるような感覚だったのに対し、ここでは違った 。畳の埃を払い、窓を拭き、客室に季節の花を活けるたびに、瑞希の心に微かな「充実感」が芽生えた 。それは、かつて感じたことのない、自分の手で何かを生み出し、整える喜びだった。親を亡くして以来、ずっと空っぽだった心の「器」が、少しずつ、しかし確かに満たされていくのを感じた 。

ある日、瑞希は客室の準備をしていた。座卓に花を活けていると、ふと客室の奥から、くすんだ笑い声が聞こえてきた。覗いてみると、八十代くらいの老夫婦が、縁側から庭を眺めていた。 「おばあちゃん、この梅の木も、もうすぐ花を咲かせるじゃろうな」 「そうね、毎年見てきた景色だけど、何度見ても飽きないわ」 二人の声は、まるで古びた木戸がゆっくりと開く音のように、温かく、心地よかった。瑞希は、そんな二人の会話に、自分の心が穏やかになるのを感じた。東京では、他人の声は雑音でしかなかったが、ここでは違った。まるで、温かい湯気が身体を包み込むように、人々の温もりがじんわりと瑞希の心に染み渡る。

「この庭の苔はね、とても繊細なのよ。水やり一つでも、愛情を込めてあげないと、すぐに枯れてしまう」

良子がそう言って、ひしゃくでそっと苔に水をかける。その手つきは、まるで赤ちゃんをあやすかのようだった 。瑞希は、良子の手元から伝わる、この旅館に対する深い愛情を感じた。良子の言葉は、まるで瑞希自身の心を映す鏡のようだった。瑞希の心もまた、繊細な苔のように、愛情を注がれなければ枯れてしまう。この旅館の隅々まで、まるで生き物のように呼吸しているのが感じられた。古い木の柱が軋む音、畳の微かなざわめき、そして庭の草木が風にそよぐ音。特に、梅の木の枝を優しく揺らす風の音が障子をかすかに鳴らすたび、瑞希の心にも、微かな、しかし確かな波紋が広がった。庭の奥から漂う、沈丁花の甘く濃厚な香り、そして苔の湿った土の匂いが、過去の重荷を少しずつ溶かしていくようだった。全てが瑞希の心を癒し、新たな生命を吹き込むようだった 。

午後、瑞希は庭の手入れを任された。しゃがみ込んで雑草を抜いていると、頭上から影が差した。顔を上げると、そこに一真が立っている 。彼は無言で、瑞希の隣に腰を下ろした 。

「疲れたか?」

一真の声は、相変わらず抑揚がない 。だが、その言葉には、微かな気遣いが含まれているように瑞希には感じられた 。彼の表情は、一瞬だけ、微かに揺らいだように見えた。それは、感情を殺し、使命のために生きてきた彼が、不意に、しかし無意識に瑞希に優しさを向けたことへの、戸惑いと葛藤の表れのように感じられた 。まるで、深く閉ざされた湖面に、一瞬だけ漣が立ったかのような、そんな微かな心の動きだった 。

「いえ、大丈夫です」

瑞希がそう答えると、一真は黙って、瑞希が抜いた雑草をゴミ袋に入れてくれた。その手つきは、庭の手入れに慣れているとは思えないほど不器用だったが、瑞希の負担を少しでも減らそうとしているのが伝わってきた。彼の指先が、瑞希の指先に、一瞬触れる。その、僅かな、しかし確かな温もりに、瑞希の心臓が「トクン」と、微かに躍動した 。まるで、凍てついた湖面の下で、小さな魚が跳ねたような、そんな予期せぬ鼓動だった 。

「ありがとう……ございます」

瑞希が礼を言うと、一真は小さく頷き、再び立ち上がった。彼の背中は、今日も静かで、どこか遠くを感じさせる 。だが、その不器用な優しさに、瑞希の心はふと揺れるのを感じた 。形式だけの夫婦。愛はない。しかし、この瞬間、たった一人で背負っていた重い荷物が、ほんの少し、軽くなったような気がした 。それは、まるで深い霧の中を手探りで進んでいた旅人が、不意に温かい光を感じたような安堵だった 。

その夜、夕食時。良子が、客として滞在している老夫婦に話しかけているのが耳に入った 。

「この旅館もね、新しい風が吹いたようで、活気が出てきましたよ」

良子の視線が、一真と瑞希の間をちらりと動いた 。その言葉は、まるで二人の「仮面」の奥にある真実を、優しく、しかし確実に照らし出すかのようだった 。瑞希は、一真の横顔を盗み見る。彼もまた、良子の言葉に、ほんの微かに、しかし確かに反応しているように見えた。彼の眉間に、わずかな緊張のしわが刻まれている 。

瑞希は、自分の手のひらを見つめた。今日一日、旅館の仕事をこなしてきた手は、少しだけ泥で汚れている。しかし、それは決して嫌な汚れではなかった。むしろ、自分がこの場所で「何か」を成し遂げている証のように感じられた 。そして、一真の不器用な優しさに触れるたび、瑞希の心に芽生える微かな感情は、冷たい心を覆っていた氷を、少しずつ溶かしていくようだった 。この奇妙な契約の生活が、もしかしたら、瑞希にとっての新しい「始まり」になるのかもしれない。そんな微かな予感が、瑞希の胸に芽生え始めていた 。過去の自分は、透明なガラス細工のように脆く、すぐに壊れてしまうような存在だったが、今の瑞希は、この旅館という大地に、少しずつ根を張り始めている。それは、まだ小さな芽生えだが、いつかきっと、大きな木に育つだろう 。

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