第47話『旅館の女将、夜は男になる』
登別温泉──北海道屈指の名湯の町に、その古い旅館はひっそりと佇んでいた。
観光案内にも名前が載らず、派手な看板もない。
けれど、温泉好きの間では“穴場”として知られており、予約もすんなり取れた。
俺がその宿に着いたのは、10月の終わり、冷たい雨が降る夜だった。
「月の屋」というその旅館は、和洋折衷の造りで、ロビーには石造りの囲炉裏と、年代物のソファが置かれていた。時代に取り残されたような趣が、逆に心地よかった。
「ようこそ、いらして下さいました」
出迎えてくれたのは、四十代後半くらいの美しい女将だった。
和装に身を包み、所作の一つひとつが妙に艶っぽい。
チェックインの手続きも丁寧で、部屋まで案内されるあいだもずっと微笑みを絶やさなかった。
その接客は、今どき珍しいほど丁重で──どこか、“馴れ馴れしいほど近い”。
部屋に着くと、女将が布団を敷きながら、こんなことを言った。
「この部屋、昔は“ご夫婦専用”だったんですよ。お一人でお休みになるの、寂しくないですか?」
軽い冗談かと思って笑って返したが、女将は目を逸らして言葉を濁した。
「……おやすみのとき、背中に何か感じても……怖がらないでくださいね」
夕食を済ませ、温泉に浸かったあと、俺は部屋に戻った。
湯冷めしないうちに布団に入り、少しだけスマホをいじってから電気を消した。
部屋は静かだった。雨も止み、窓の外は漆黒。
やがてうとうとしはじめた頃だった。
布団の中に、“誰かが入ってくる感覚”があった。
背後からそっと腕が回され、腰に手が添えられる。
柔らかい、けれどはっきりと男の腕のように太く、ぬくもりがあった。
(……誰か、いる?)
怖くなって振り返ろうとしたが、動けなかった。身体が沈み、息が詰まるような圧迫感。
耳元に、低く濁った声が囁いた。
「……あったかいな……」
それは、女将の声ではなかった。
男の声──だが、妙に湿っていて、喉が詰まったような発声だった。
指が俺の胸をなぞり、ゆっくりと下腹部へ降りていく。
その手つきは、いやらしく、それでいて慣れすぎていた。
「や、やめ──」
声を出そうとしても、喉から空気が漏れるだけだった。
そのまま、俺は何かに押し倒され、体をまさぐられ、
──果てた。
朝、目が覚めたとき、布団の中には誰もいなかった。
だが、胸元にはっきりと**“男の手の跡”が残っていた**。
そして、首筋には、女性の口紅の痕までついていた。
まるで、“ふたり”に同時に抱かれたかのようだった。
チェックアウトのとき、女将は昨夜と変わらぬ穏やかな笑顔で言った。
「……よく眠れましたか?」
俺は言葉に詰まりながら、勇気を出して聞いた。
「この宿って……変なこと、起きたりしますか?」
女将は少しだけ目を伏せ、言った。
「……主人が亡くなってから、時々お客様に“近づく”ようになったんです」
「わたしの体の中に、夜だけ戻ってくるみたいに。きっと、さみしいんでしょうね……」
「わたしが誰かを“欲しい”と思うとき、
……あの人も、いっしょに、触ってくるんです」
それからだった。
あの旅館を出てからも、俺は夜になると“ふたつの手”に包まれるようになった。
背中に、太くて逞しい男の腕。
正面からは、細くやわらかい女の手が、胸元に触れてくる。
耳元では、低い男の息と、色っぽい女の吐息が交互に囁いてくる。
「……おまえ、気持ちいいか?」
「いっしょに、あたためてあげる……」
身体は反応する。
快感に逆らえず、何度も果てた。
けれど、どこで眠っても──ホテルでも、自宅でも──
必ずあの“ふたつの手”が、俺を取り囲む。
まるで、俺の中に住みついたかのように。
あの旅館で出会ったのは、ひとりの女将じゃなかった。
彼女は夜になると、“夫とふたり”になる。
そしてそのまま──誰かの体の中に、ふたりで移る。
今、俺は夜ごと、彼と彼女の間に挟まれて眠っている。
それが快楽なのか、呪いなのか……
わからないまま、今日もまた布団に沈む。
──誰かが、後ろから、そっと腰に手を回してくるのを感じながら。
【完】
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