第2話

 頭痛が酷い。昨日はあまり寝れなかったのが原因だろう。ただ、今日は図書館に行くと決めた。同僚の言っていたことが正しいなら、郷土資料コーナーになにかヒントがあるはずだ。


「お探し物ですか?」


ピトリと、ぬめり気のあるものが腕に触れた。見ると、汗拭き立つ4~50代の男性。胸元を広げたYシャツや図書館の管理証をぶら下げているのから見て、ここの従業員だろう。だが、その表情はどこか緊張しているようにも見える。


「なんというか、この町に興味があって......」


「どんな」


よそいきの声から、重圧の効いた俺を突き刺しそうな声が響く。俺は目を泳がせながら、今まで起きたことを話した。最初は、にこりとしていた彼の表情は張り付いたような笑顔へと変わっていくのが見えた。


「なるほど、お水様に関する資料が知りたいと......。確かにここは、水に関する伝承があります。町の名も『清水町』ですからね」


「じゃあ......」


「こちらで、お見せしましょうか?」


そういうと、従業員の男は会議室と書かれた扉の方へ招き始めた。俺は、嫌な予感はしつつも、その男についていくことにした。俺が入ると、彼は会議室の椅子に座るよう促した。軽く会釈して座った。


「少し、待っていただけますか?」


「はぁ......」


真相を、真実を知りたい俺はあのおじさんを信じるしかなかった。待っていると、彼はペットボトルを持って会議室に戻ってきた。その光景に少し背筋がゾクリとした。


「そういえば、あなたのご出身は?」


「神奈川です」


「あらら、そんな都会からよく、こんな田舎に......。では洗礼は?」


「え、洗礼? キリストの? いや、自分無宗教なんですけど」


そう言うと、そのおじさんは無言でペットボトルに入っていた水を俺の頭からぶっかけてきた。一滴も残さないようにぴたっ! ぴたっ!とペットボトルを振り下ろす。


「ちょ、ちょっとちょっと! な、何してるんです!?」


「だから、洗礼です。この町に馴染むには必要な儀式なんですよ。これで、あなたへ降りかかるものは無くなりました。ですが、除水もした方がいいかもしれませんね」


除水? 初めて聞く単語に困惑していると、またおじさんは水の入ったペットボトルをまた取ってきた。今度は、さっきより少し黄色く濁っている。気味の悪い雰囲気を醸し出していた。すると、おじさんは力任せに俺の腕を縛り、俺の口を強引に開ける。


「は、はががが!!?」


このおじさんの力が強く、抵抗空しく俺の口にその黄ばんだ水を注ぐ。落ちて行くその水は、たぽたぽと音を立てて、舌を駆けて喉を通る。瞬間走る激痛。俺は、おじさんの腕を振り切りそれを吐き出す。吐き出したものの、ずっとなにかがうごめいたかのような喉の荒れに気分が悪くなっていく。


「げえ、げえほ......」


「だめじゃないか。お水様の水は全部受け入れないと......。初めから、やり直しじゃないか」


 おじさんが淡々とした口調で部屋を出た。俺はその隙を見て、力を振り絞り、焼けるような喉元を押さえながら図書館を飛び出していく。すると、おじさんが追いかけてくるのが見えた。これは、すぐに追い詰められてしまう。全力で走っているつもりが、足がもつれてどちらに足を出していいか、理解できなくなる。俺は、歩いていけているのだろうか。図書館がなんとなく遠くなっていく。おじさんは、走りもせず余裕で歩いて追い詰めようとする。その顔を見つめて、俺は足を動かした。走れた。しばらくして、振り向くと図書館の私有地から一歩たりとも動かなくなり、立ち尽くすおじさんだけが小さく映った。俺は、奇妙ながらも駅へとやっと帰ってきた。


「はぁ、はあ......」


電車の座席に座って、ようやく力が抜けた。そのせいか、痛みも引いたような気がした。うつむきながら、自宅の最寄りまでなにも映っていないスマホをぼうっと眺めた。数分しないうちに最寄り駅に付き、ヘトヘトの中、家についた。また、ペットボトルから水があふれているのだろうか。嫌々ながらペットボトルを見た。すると、ペットボトルの水が半分ほどにまで減っていて、倒れていた。


「倒れてる......」


なんとなく気になって、俺がそれを立てようとした瞬間、何かの視線を感じた。風呂場からだ。しばらく固まって動けなかった。金縛りに近い、ジメジメとした視線が、俺を突き刺す。俺は勇気を振り絞り、ガッと風呂場の扉を開けた。だが、そこにはなにもない。ただ、ピトッ、ピトッと洗面の蛇口からしずくが垂れる音が聞こえていただけだった。


「水、出っ放しだったのかな」


洗面に立ち、蛇口を捻ろうとした瞬間、その排水溝から刺激臭に近いものが匂った。洗剤を使ったわけでもないのに、どうして......。もう気分が悪い......。そう思って風呂場を出ると、間違えてペットボトルを蹴ってしまった。意図もしない方向にスコーンと飛んでいくペットボトルは、運悪くフタが外れて中身をぶちまけて行く。またもびしょぬれになった床を見つめ、俺は呆れ果てていた。


「どうしてこうも水難が続くんだ......。勘弁してくれ......」


俺はまたもタオルを拭いていると、お尻に突然ぶるぶるという振動が伝わる。びっくりして、床をつるりと滑ってコケて、何もかも嫌になりながらお尻のポケットに入っていたスマホを取り出す。


「父さん?」



父からの電話だった。父は寡黙で、放任だ。俺が出た時も「好きにしろ」とだけ言ってテレビを眺めていたくらいだ。それが、どうして......。


「もしもし?」


「あの、雨宮巌さんのご家族の方ですか?」


電話口は聞き覚えのない女性の声だ。それに、少し震えているようにも聞こえる。

落ち着きもない......。父になにかあったのだろうか......。


「は、はい。巌は父ですが......。あの、どちら様で?」


「あの隣のものですけど、ものすごい音がして......。それで、救急と一緒に上がらせていただいたんですけど、その......」


歯切れの悪い、隣人と名乗る女性の動悸が激しくなったのを感じる。その時点で、さらに嫌な予感が増した。すると、隣人が申し訳なさそうに続けた。


「お父さま、風呂場で頭を打ってて......。それで、ものすごい血の量で......」


俺の血の気が引いた。


「わ、わかりました。とにかく、そちらへ伺います。病院名を伺っていいでしょうか?」


「はい......」


俺はペットボトルなど放っておいて、その足で地元に戻り、隣人が伝えてくれた病院へ向かった。だが、父の死に目に間に会わなかった。医者が言うには、輸血をしてもパンクしたタイヤのように血が抜けて行くと言っていた。その父の姿はもう、威厳ある姿はなく、エジプトのミイラのようにからからで頬骨も出たような姿だった。

絶句、唖然......。空白の脳裏に、俺の中にうっすらと家に倒れっぱなしのペットボトルが浮かび上がった。


「今は父さんのこと、どうにかしなきゃ......」


 頭を抱えながら、葬儀のために実家に戻り遺品整理をしていると、父のパソコンの電源が点いたままだった。スリープ状態から戻すと、俺が住んでいる「清水町」について調べたままの状態の検索サイトが開いてあった。それを閉じて、父のデスクトップファイルを見ると、同じ「清水町」という名のファイルがあった。お父さんが、ずっとこれを? おそるおそるそのファイルを調べるも、中身は破損していて見ることができなかった。だが、一つの写真データだけは見れることができた。


「な、なんだこれ......。井戸?」


その時、俺はまた、あの黄ばんだ水を飲んだ時のような、焼けるような痛みが再び喉元を刺激し始めた。どこにあるかもわからないが、この井戸が俺たち家族の間で起きていることと、何か関係がある......。そう感じた。

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