第24話 王子エミールの断罪とクラリッサの過去

――再び、意識は水の底へと沈んでいった。


 黒い水は澄み、光が差し込み始めている。モモ=リュミエールの心の奥底に、なおも残された“記憶”の残滓が広がっていく。


 (……これは……お母さんの、もっと前の記憶……?)


 見知らぬ田舎の村。麦畑と井戸、そして石造りの粗末な家屋が並ぶ。そこに、まだ幼い桃色の髪をもつ少女がいた。――クラリッサ。その頃の彼女は、まだ「聖女」でも「貴族」でもなく、ただの平民の少女だった。


 「お姉ちゃん! 大変だ、トムが……!」


 村の小道を、泥まみれの男の子が駆けてくる。クラリッサの弟、トム。だがその姿は血に染まり、左腕が不自然に垂れている。


 「どうしてそんなところに登ったの! もう……!」


 泣きながらトムに駆け寄るクラリッサ。見れば、骨が露出し、折れ曲がった腕からどくどくと血が流れていた。


 彼女の体が、小刻みに震えた。


 (やめて……やめて、トムが死んじゃう……!)


 その瞬間だった。クラリッサの胸に温かな光が灯り、手のひらが白く輝いた。


 そして、彼女の手がトムの腕に触れたとたん――。


 淡い光が包みこみ、血が止まり、骨が元の位置へ戻り、肉が結び直されていく。


 「……いたく、ない……あったかい……」


 トムがぽつりとそう呟いたとき、クラリッサの光は消えた。


 それが、すべての始まりだった。


 村は騒然となり、教会の神官がやってきた。そして数日後、フリューゲル大神殿から使者が訪れた。


 「この子には、女神の祝福があります。聖女候補として、神殿にお預かりします」


 クラリッサは泣いた。家族と引き離されるのが怖かった。しかし、貧しい家には選択肢はなかった。こうして彼女は、八歳で神殿に引き取られ、厳しい修行の道に入った。


 神殿の回廊、石の床。厳格な教師たち、静謐な祈りの時間。だがクラリッサは持ち前の素直さと努力で、誰よりも早く才を開花させていった。


 十歳のとき。大精霊ラファエルの加護を受け、正式に《聖女》の称号が与えられた。


 その瞬間から、彼女は《国の宝》となった。


 そして――


 「クラリッサ=リュミエールには、第三王子エミール=フォン=フリューゲルとの婚約を命ずる」


 王命により、彼女の婚約者が決まった。十歳の少女にとって、それはただの義務にすぎなかった。


 だが、時は流れ、彼女が十八歳になったとき。


 ベルサイユ学院の卒業式。


 ――事件は、そこで起きた。


 「……私は、クラリッサと結婚などしない!」


 式典の場にて、王子エミールが突然叫んだ。満場が静まり返る中、彼はさらに追い打ちをかけるようにこう言った。


 「すでに彼女とは、婚約を解消する手続きを進めている!」


 国王レオナルドは外遊中。その隙を突いての強硬な動きだった。


 その裏には、クラリッサという“聖女”の存在が、重荷となっていた王子の焦りと自尊心があった。そして王子は、教会と内通したリュミエール男爵家に圧力をかけ、式の当日に――。


 「クラリッサを、正式に娶れ。王家の許可は不要だ。今すぐ、婚姻を結べ」


 男爵家にはすでに婚約者がいた。だが、王子の命に逆らえば、家そのものが潰される。男爵は泣く泣く受け入れ、儀式が執り行われた。


 クラリッサは、その夜、涙を流しながら婚姻を受け入れた。


 「……わたしは、ただ国のために生きてきたのに……」


 その翌朝、王都に戻った国王レオナルドはすべてを知り、激怒した。


 王子エミールには王位継承権の剥奪と幽閉が命じられ、教会の責任者は追放、王宮と教会の関係は冷えきった。


 そしてクラリッサは――その日、身ごもっていた。


 娘の名は、モモ。


 生まれてからの数年間、クラリッサは孤独の中にもささやかな幸福を見出していた。リュミエール男爵家での生活は冷ややかで、夫とは心が通じ合わなかった。


 だが、モモだけは――


 「あなたがいてくれてよかった……モモ……」


 母として、娘を育てることが、クラリッサに残された生きがいだった。


 しかし、ある日、あの水源の精霊――ウンディーネが目覚め、再び黒い水が山を襲った。


 「このままでは、モモが……!」


 そして彼女は決意する。


 ――自らが封印の器となり、モモに託すのだ。


 クラリッサは、聖女としての力をすべて注ぎ、モモの中に潜む《聖女の資質》を封じた。


 「この子が十五歳になるまで……時間を稼げるはず……その時が来れば、女神が導いてくれる」


 ペンダントに託したのは、ただ一つの願い。


 「どうか、モモは幸せに……わたしのようには……ならないで……」


 そしてクラリッサは、ウンディーネの核と結び付き、永い封印へとその身を捧げたのだった。


 ――すべてを知ったとき、モモの心には静かな火が灯っていた。


 母が歩んだ孤独と、犠牲の道。その上に立っている今の自分。もう泣いてはいけない。


 だから、モモは選んだのだ。


 「ベルサイユ学院に、残ります」


 好きな人のそばで、自分の意志で歩くために。


 その瞳は、もう曇ってはいなかった。


 母が残した「想い」の記憶は、モモの中で確かに息づいていた。



◆《公爵家編・紅蓮の娘と剣聖の影》◆


 ベルサイユ学院の正門に初夏の陽光が差し込む頃、フレイア公爵邸では、一つの静かな再会が訪れようとしていた。


 「ただいま戻りましたぞ、レオノーラ!」


 赤髪を後ろに流し、凛々しい顔立ちの中年紳士が玄関ホールに足を踏み入れた。その人物――アーサー=フレイア公爵は、重厚なマントを揺らしながら、堂々たる風格で邸内へ進んでいく。


 その背後には、ゆったりと歩く金髪の女性が一人。柔らかな微笑みを浮かべた彼女は、マーガレット=フレイア公爵夫人――レオノーラの母である。


 「レオノーラ、どこかしら……うふふ、半年ぶりねぇ。どれだけ背が伸びたかしら」


 夫人はおっとりとした口調で言いながらも、その瞳には娘に会える喜びが滲んでいた。


 二人は今回、フリューゲル王国の名代として三カ国を巡る外交会議に参加していた。海を越え、各国の同盟条約や貿易協定の再調整に追われる中、学院から急報が届いたのはちょうど旅程の終盤だった。


 ――レオノーラ、婚約破棄される。


 それは国の将来に関わる話であり、また一人娘の誇りにも関わることだった。


 「全く、何が“王家の都合”だ……あの第三王子め、リュシアンの阿呆が……っ」


 応接間に通されるやいなや、アーサーは握った拳を震わせた。


 そしてその隣に座っていたレオノーラは、椅子の背もたれに腕を組んでふんぞり返る。


 「心配いらないわ。あんな男こっちから願い下げよ。正直、ちょっと気が重かったし」


 「ふん……最初から乗り気じゃなかったではないか。王家の要請に折れただけだったのに、まったく、あのリュシアンめ……」


 「あなた、静かにしてくださいな」マーガレットが優しくたしなめた。「娘の前であまり怒ってはいけませんよ」


 「うむ……すまん、レオノーラ。お前が傷ついていないか、それだけが心配だった」


 アーサーが怒りを引っ込めたところで、マーガレットがほっと息をつく。


 「でも、こうして元気な顔を見て安心したわ。あら? 何か雰囲気が変わったような……」


 「あっ、それなんだけど」レオノーラがやや得意げに胸を張った。「わたし……精霊術、使えるようになったの」


 その言葉に、公爵夫妻の顔が凍りついた。


 「なに……?」アーサーが眉をひそめる。「精霊術だと? 本当か?」


 「ほんとよ。炎の精霊、イフリートまで召喚したんだから」


 「……すぐにエルヴィナ様へ連絡しなくては」アーサーは即座に立ち上がる。


 「そうね……エルヴィナ様には感謝してもしきれないもの」マーガレットも頷く。「あの時、あなたがまだ赤ん坊で高熱を出したとき、わたしたちのために城からわざわざ来てくださったのよ」


 そう――レオノーラが生後間もなく高熱を繰り返したのは、強すぎる魔力が原因だった。


 それを知ったアーサーは、当時王城にいた大魔導士エルヴィナに相談した。彼女は即座に公爵邸に赴き、魔力制御のための“結晶核”を娘の魔力核に合わせて施術したのだった。


 「それがあったから、あなたは健やかに育てたのよ。……その魔力が、今、精霊術として花開いたのね。ああ、きっとエルヴィナ様もお喜びになるわ」


 レオノーラはちょっとだけ恥ずかしそうに頷いた。


 だが、そこでアーサーが真剣な表情を向けてくる。


 「それで……これからどうするのだ? 新たな婚約者の話も考えなくてはならないだろう。年齢的にも、そろそろ婿養子を……」


 「今は……いらないわ」


 レオノーラは目をそらしながらきっぱりと言い放った。


 「なに? いらないだと?」


 「だって……もう、いいのよ。そういうのは」


 「なぜだ。何か問題があるのか?」


 そわそわとし始めたレオノーラの様子を見て、マーガレットがくすっと笑う。


 「まあ、もしかして……いい人ができたのかしら?」


 「ち、違うわよ!?  ハルトとは何もないからっ!」


 「ふふふ……リディア?」


 マーガレットは扉の近くに控えていた黒髪の侍女に声をかけた。即座に応じたのは、レオノーラの専属侍女――そして影の護衛であるリディアだった。


 「詳しくはこちらになります」スッと差し出されたのは、書類一式。


 「なにしてるのよっ!? リディアぁっ!」


 「命令には忠実に従います」


 顔を真っ赤にしながら書類を取り上げようとするレオノーラを制して、マーガレットはにっこりと書類に目を通す。


 「……あら、“剣聖”さんなのね。伯爵家令息なら身分的にも問題ないわ。ふふふ、なんだか素敵ね」


 「まだ何も決まってないのよっ! ただ、ちょっと……気になる人、ってだけで……!」


 「婚約破棄されたばかりで気が早い!」アーサーがまたしても立ち上がる。「そもそも、前回の婚約だって王家に頼まれて――」


 「あなた、静かにしてくださいませ」マーガレットが笑顔のままぴしゃり。


 そして、レオノーラに向き直る。


 「その剣聖くん……会わせてちょうだい。ね? わたしも見てみたいわ」


 「えええええ!?」


 椅子からずり落ちそうになるレオノーラ。


 だが、マーガレットの微笑みは優しく、どこか慈しみに満ちていた。


 「あなたが誰かを大事に想うのなら、私たちは全力で応援するわ。ただし――相応の覚悟と実力がある人じゃないとダメよ?」


 レオノーラは、しばらく黙ったあと、小さく頷いた。


 「……わかったわ。じゃあ、今度、ちゃんと紹介する」


 リディアが一歩引いて、ひそかに目を細めた。


 (まったく……恋にも戦にも、姫様は全力すぎる)


 そう思いつつも、彼女は誰よりもレオノーラの味方であると誓っていた。


 こうして――フレイア公爵家の静かなる日常は、ふたたび新たな風を迎え入れようとしていた。

 紅蓮の令嬢の背中に、剣聖の影が、静かに重なろうとしている――。

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