第5話 イフリートの過去

◆《焔精霊譚 ― 炎に哭く者、イフリート》◆


 はじまりは――ほんの、小さな灯だった。


 それは、森の奥に生まれたばかりの焔の精霊。手のひらほどの大きさで、ふわふわと空中を浮かび、かすかに空気を温める程度の力しかなかった。


 けれど、その精霊を見つけたひとりの少女がいた。


 名はアンリ。王都から少し外れた村に住む、精霊使いの見習いだった。


「お前、名前はあるの?」


 少女の掌の中で、焔の精霊は小さく揺れた。名などない。ただ、生まれて、揺れて、燃えていたにすぎなかった。


「……じゃあ、イフリートって呼んであげる。いいでしょ?」


 その日から、ふたりの時間が始まった。


 アンリは毎日のように焔の精霊と話し、共に過ごし、炎の扱い方を覚えていった。最初は小枝を灯すことすら苦労したが、やがて火を操り、魔法を紡ぎ、小屋を焼きかけたこともあった。


 だが、イフリートは成長した。アンリの魔力を得て、彼女の意思と心に触れ、ただの焔だった存在は“意志”を宿すようになる。


 数年が経ち、アンリはその名を王都の精霊学院に知られるまでになっていた。若き精霊術士として、炎の加護を受けた者として、将来を嘱望された。


 そして、十八の春。


 アンリは幼馴染である勇者アレクと共に、国を出た。


 旅の仲間は、アレクだけではなかった。冷静沈着なハイエルフの魔術師エルヴィナ、寡黙な剣聖ディオン、そして優しく穏やかな聖女ミレイユ。


 精霊イフリートも、アンリのそばにいた。


 魔王討伐の旅は過酷を極めたが、それでも彼女は決して折れなかった。


『アンリ、熱すぎるぞ……! このままじゃ……!』


「いいの。あなたの力があれば、みんなを護れる!」


 イフリートはその言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。自分はただの焔ではない。アンリにとっての力、仲間たちを護る炎だった。


 ――そして、魔王が討たれた夜。


 北の山脈の奥、黒い城の玉座の間で、世界の災厄が燃え尽きた。


 アンリは王都に凱旋し、国中の喝采を浴びた。イフリートも、喜びに燃えていた。


 その直後、王からの勅命でアンリはサンジュエル伯爵との婚約を受け入れることになる。


 サンジュエルは若く有能で、王家にも血縁を持つ貴族だった。多くの者がその婚姻を祝福した。だが、イフリートだけは――燃える心の奥に、違和を感じていた。


 彼の目には見えていたのだ。


 伯爵の心の奥――


 黒い欲望と、冷たい偽りの微笑み。


 「あなたには、あの男の心が読めるのか7?」とアンリが尋ねたことがある。


 そのときイフリートは、何も言えなかった。ただ、ゆらゆらと揺れる炎のまま、アンリを見つめるだけだった。


 そして、悲劇は訪れた。


 婚儀の夜。城の奥で、伯爵は精霊術士としてのアンリを利用するため、契約の罠を用意していた。


 ――契約転写の秘術。


 それは、強制的に精霊との契約者を上書きし、力を奪う外道の術だった。


「まさか……こんなこと……!」


『アンリッ!!』


 イフリートが叫んだとき、すでに魔法陣は発動していた。


 その瞬間、精霊と少女の契約は引き裂かれ、炎の精霊は無理やりサンジュエル伯爵と繋がれた。


『な、なんだこの、澱んだ魔力は……! お前ごときに、何故……!』


 伯爵の命令が、脳に直接焼きつくように響いた。


 ――「イフリートよ、命ずる。あの女を……焼き尽くせ」


『なっ……貴様……!?』


 心を斬り裂かれるような衝撃。


 契約に逆らえば、存在が崩れる。だが、抗おうとする心があった。


『俺は……アンリを……殺せるものか!!』


 けれど、伯爵の命令は鋼鉄の枷のごとく、彼の魔核を締めつけた。


 そして――炎が暴発する。


 その中心に立つ少女は、逃げなかった。


 笑っていた。


「あなたと一緒になれるのね、イフリート……なら、怖くないわ」


『――っ、やめろォォォォ!!!』


 叫びは空に虚しく響き、紅蓮の炎が彼女を包み込んだ。


 アンリは焼けて、消えて――それでも、最後まで穏やかな笑みを浮かべていた。


 焼き尽くされたのは、アンリだけではなかった。


 イフリートの内に宿った“怒り”が、契約を打ち砕いた。


『……許さない……お前たち……誰一人……!!』


 炎の魔力が暴走し、契約を縛る術式が砕け散る。


 次の瞬間、伯爵邸は――まるごと、炎に呑まれた。


 地は燃え、塔は崩れ、空まで紅に染められる。


 イフリートの中で、少女の面影が脈打っていた。


 ――アンリと共に生きる。


 その願いが、彼を異形へと変えた。


 イフリートは人の形を模した。


 アンリに似た姿、長い髪、優しい微笑。


 けれど、その瞳には哀しみと怒りの炎が、永久に燃え続けていた。


 「アンリ……お前は……俺の中にいる。ならば、俺はお前として燃え続けよう」


 


◆《焔精霊譚 ― 封焔の誓い、最後の祭壇》◆


 ――燃え尽きた、王都西方のサンジュエル伯爵邸。


 黒く焦げた大地に、炎の名残だけが赤々と残っていた。


 遅れて駆けつけたのは、かつて魔王を討ち滅ぼした英雄たち――勇者アレク、魔術師エルヴィナ、剣聖ディオン、聖女ミレイユの四人。もう一人の仲間はいなくなっていた。精霊術士・アンリ。


「くそっ……遅かった……っ!」


 アレクが拳で焼け焦げた石畳を殴りつけた。崩れた屋敷、崩れ落ちた塔、全てがただの瓦礫と化している。


 「アンリ……どこだ、アンリ……!」


 叫ぶ声に、誰も答えない。


 エルヴィナが魔術で灰の中を調べるが、そこにアンリの姿はなかった。ただ――炎の魔力だけが、異様なほどに濃く残っていた。


「これは……イフリートの気配。でも、おかしい……あの力は……制御されていない……」


 「契約が……断たれてる?」


 ミレイユがそっと両手を重ね、祈りの魔力を広げる。大地の残滓に耳を澄ませるように。


 そして、その時――


 瓦礫の中央、燃え残った円形の儀式室跡から、ゆらりと立ち上がる影があった。


 紅いドレス、長い紅髪、穏やかな微笑み。


 「……アンリ……?」


 アレクの声が震える。


 だが――違う。


 彼女の瞳に映るのは、激情の炎と、底なしの哀しみ。


 「……イフリート、なのか……?」


 ゆっくりと振り向いたその存在は、まさしくアンリの姿をしていた。


 けれど、その魂は、焔の精霊だった。


「なぜ……こんな姿に……!」


 ミレイユが悲鳴を上げ、ディオンは剣を握り締めたが、抜かなかった。


 イフリートは静かに口を開いた。


 「……彼女は……俺の中で、生きている……アンリは、俺を赦した……だから、俺は……アンリとして燃え続けるんだ」


 その声には、怒りも憎しみもない。ただ、深い絶望と哀しみだけが宿っていた。


 「イフリート……」アレクが一歩近づこうとする。


 だがその瞬間、イフリートの焔が舞い上がる。


 「もう……誰にも近づけさせない……! アンリは奪われた、俺の中だけが……唯一の居場所なんだ!」


 「待って……戦うつもりはないの!」ミレイユが叫ぶが、すでにイフリートの身から炎がほとばしっていた。


 しかし、エルヴィナが一瞬の詠唱で封印結界を展開する。


 「アレク、ミレイユ、今!」


 「……ごめん、イフリート。……アンリを、これ以上苦しませたくないんだ……!」


 ミレイユの癒しの魔力が焔を鈍らせ、エルヴィナの結界がそれを封じ込める。


 剣聖ディオンが躊躇いながらも、封術を補助する。


 イフリートの足元が光の鎖で縛られ、地を割って現れた転移陣へと引きずり込まれていく。


『やめろ……やめてくれ……! 俺は……ただ、アンリと……!』


 その叫びは、仲間たちの胸を突き刺した。


 ――だが、誰も答えられなかった。


     ※


 たどり着いたのは、王都から遠く離れた北の森の奥深く。


 古代文明の遺跡、その中心にある巨大な石の祭壇。今では地図にも載らない、忘れられた場所。


「ここなら……誰も来ない……」


 ミレイユが祈りを捧げ、エルヴィナが結界を張り巡らせる。


 封印陣が七重に重ねられ、空間そのものが歪むほどの力で、イフリートを包んだ。


 炎の精霊は、アンリの姿のまま、地に伏せるように沈黙していた。


 アレクがそっと近づき、耳元で言った。


 「……すまない、イフリート。本当は、お前を救いたかった。でも、今のお前は……アンリの魂すらも、巻き込んでしまう……」


 剣聖ディオンが静かに言葉を継ぐ。


 「せめてもの救いを与える。それが……俺たちにできる、最後の贖罪だ」


 「許してね、アンリ。あなたのこと、大切に思ってたのに……守れなくて」


 ミレイユの涙が封印の光に溶け、最後の結界が閉じられる。


 静寂が訪れる。


 その祭壇に、新たな命が踏み入ることはないだろう。


 封印は永劫に続き、イフリートは――アンリの面影を残したまま、深き眠りについた。


 そして――誰にも語られぬ、ひとつの伝説が、静かに幕を下ろしたのだった。


 だが、それは決して終わりではない。


 彼らの想いが交わったその地は、やがて、また運命を引き寄せる。


 ――運命の歯車は、再び静かに回り始めていた。



 封印によりイフリートは封じられることとなった。


 だが、彼の心は今なお、あの日の記憶と、少女の名を抱いている。


 ――アンリ。


 唯一、炎の中で名を呼んでくれた少女の名を。


 その瞳に、今新たな“精霊の器”――レオノーラの姿が映った時。


 彼の魂に、再び記憶の焔が宿る。


 (あの子は……アンリはレオノーラと共に歩めと……)


 伝説が再び動き出す。


 そして次なる瞬間、イフリートの新たな足音が響く――

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