第9話「風の名を呼ぶ日」
舞台の幕が降りてから数日が経った。
清水屋の帳場には、まだその余韻が残っていた。
「神谷の坊、なかなか様になってたな」
「若いのに肝が据わってる」
旅館に来る常連客や座員たちが、僕を見るたびにそう声をかけてくる。
笑顔で返すけれど、心の奥では少しだけ空虚さを覚えていた。
(……あの瞬間は、もう戻らないのか)
舞台の光の中で、確かに僕は“舞っていた”。
瑠璃の視線を受けて、心から舞いたいと願えた。
けれど、時間は容赦なく前に進んでいく。
ある夕暮れ、庭先で座長と年配の座員の会話が耳に入った。
「今週いっぱいでここを発つ。次は北の温泉町だ」
「準備は明後日から始めるぞ」
その言葉に、胸がずしりと重くなった。
わかっていたことだ。巡業は永遠じゃない。
けれど、現実として突きつけられると、息が詰まるようだった。
夜。
清水屋の庭に出ると、瑠璃が縁側に座っていた。
手には団扇。
夜風に髪が揺れて、横顔はどこか遠くを見ているようだった。
「……もうすぐ、行っちゃうんだな」
思わず口にすると、彼女は驚いたように振り向き、少し笑った。
「うん。旅は続けなきゃいけないから」
「……舞台が、君の居場所なんだね」
「そう。舞台があれば、どこにいても生きていける」
彼女はそう言って、また夜空に視線を戻した。
僕は、頷くしかなかった。
(わかってる。けど、本当は――)
喉まで出かかった言葉を、夜風がさらっていった。
沈黙ののち、瑠璃が小さく言った。
「来年も、この町に来られるかな」
問いかけのようで、独り言のようでもあった。
「……来年も、待ってる」
僕はそう答えた。
約束の言葉だったのか、それとも慰めだったのか、自分でもわからなかった。
けれど、彼女はふっと笑った。
その笑顔が少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいじゃなかった。
翌朝。
清水屋の前には、荷車や大きなトランクが積まれていた。
一座の人々が声を掛け合いながら、出発の準備を進めている。
僕は部屋の窓辺に立ち、その光景を眺めていた。
声をかけに行こうとすれば行けた。
でも、足は動かなかった。
ただ胸の奥で、ひとつの名前を呼んでいた。
「……風見瑠璃」
声にはならなかった。
けれど確かに、僕の中で響いていた。
夏の風が障子を揺らし、その音にかき消されながらも。
胸に残ったのは、ただ彼女の名だけだった。
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