第9話:最初のステージ
梶原が私たちの部屋を出て行った後も、彼の言葉は濃密な熱気となって部屋に残り続けていた。
「考えておいてくれ。ただし、時間はあまりないぞ」
そう言い残した彼の瞳は、私たちが必ず彼の提案に乗ることを確信しているようだった。
「……どう思う?」
私は、沈黙している凛火に尋ねた。
彼女の答えを、私は恐れていた。凛火が「やめよう」と言えば、私はこの話を断るしかない。あの熱狂を、世界に見つけてもらえた高揚感を、二度と味わうことはできない。
「……お前はどうしたいんだ」
凛火は、質問を質問で返してきた。その視線は、私の心の奥底を見透かそうとしているかのようだった。
「私は…」
言葉が、喉に詰まる。
「私は、歌いたい」
やっとの思いで、絞り出した。
「もう一度、ステージに立ちたい。誰にも邪魔されずに、誰にも文句を言われずに、ただ、私の歌を聴いてほしい」
それが、私の本心だった。
梶原の提案は、そのための最短ルートであり、唯一の道のように思えた。
「そのためなら、何でもする?」
「……する」
私の答えを聞いて、凛火はふっと息を吐いた。それは、溜息のようでもあり、諦めのようでもあった。
「……わかった」
「凛火…!」
「ただし、条件がある」
凛火は、私の目をまっすぐに見据えた。
「ヤラセなら、やる。だが、本物の暴力は二度と使わない。誰も、本気では傷つけない。それを約束しろ」
その言葉は、凛火が私に差し伸べた、最後の良心だったのかもしれない。
「……うん。約束する」
私は、力強く頷いた。
一週間後、私たちは梶原が指定した廃墟の倉庫に来ていた。
中央には、錆びついた金網で囲まれた、即席のリングが設えられている。数台の無人カメラが、不気味に私たちを見つめていた。
「準備はいいか?」
梶原が、インカム越しに話しかけてくる。
私は、リングサイドに設置されたマイクの前に立ち、頷いた。隣では、凛火がゆっくりと屈伸をしている。
今日の対戦相手は、梶原がどこからか見つけてきた、プロ崩れの格闘家だという。もちろん、全ては筋書き通りのヤラセだ。凛火が少し苦戦したのち、劇的に勝利する。それが、今日の「台本」だった。
「配信開始、5秒前。4、3、2……」
カウントダウンと共に、倉庫の照明が落とされ、リングだけがスポットライトに照らし出される。
私はマイクを握りしめ、息を吸い込んだ。
カメラの向こう側にいる、顔の見えない観客たち。
彼らが、私たちを待っている。
歌い始めると、凛火がリングに上がる。対戦相手の男も、わざとらしく威嚇しながらリングインした。
ゴングが鳴り、戦いが始まる。
凛火の動きは、しなやかで力強い。男の攻撃を受け流し、華麗な蹴りを叩き込む。もちろん、全ては計算された振り付けだ。
それでも、コメント欄は熱狂していた。
『待ってた!』
『凛火様、今日も美しい!』
『詩凪の歌が、凛火を強くするんだ!』
そうだ。これでいい。これが、私たちのステージなんだ。
私は、歌に感情を込める。凛火の苦悩を、強さを、そして、彼女を守りたいという私の祈りを。
凛火の流す汗が、スポットライトを浴びてキラキラと輝く。
その一滴一滴が、私の歌を、私自身を、輝かせる最高のスポットライトのように思えた。
私たちは、この狂ったステージの上で、完璧な共犯者だった。
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