四章〈別れ〉
第27話
バスに乗り、約四十五分。
周りの景色はのっぺりとした灰色から、精彩放つ緑の背景へと変わった。田園風景が広がる田舎道を走るバスの車内には、僕と彼女以外の乗客は居なかった。空調とエンジンの駆動音が車内を満たす。それは静寂と同質の効果をもたらしていて、心地良い教室の雑音を想起させた。
「憶えてる? ……ううん。思い出した?」
その一言だけで、僕が何を思い出したのかを問われているのか、理解した。
「あぁ」
だから、返答もその一言で十分だった。
それっきり、僕らの間に会話は無かった。
到着したのは、県内有数の向日葵畑。
そこかしこから蝉時雨が聞こえる。それは夏の象徴でもあり、僕を悪夢の中心に引き摺り込む不協和音でもあった。どれほど彼女と過ごした時間が緊密で、空に煌めく星屑のような幸福に満ちていたものだったとしても、あの事件のことを思うと、どうしても。
「あ、まだあった」
バス停から降りた春香が歩き始める。その先には、古民家を改装したカフェがあった。以前、僕と彼女がデートに来た時も、この店を避暑地として利用していた。
扉を開け、店内に入る。風鈴に似たドアベルの涼し気な音色が僕らを出迎える。程なくしてキッチンから一人の女性が出て来て「いらっしゃいませ」と丁寧に挨拶をした。
「一名様ですね」
その言葉に、僕は胸の痛みを覚えた。鮮烈なサイダーのようなそれは、僕の心臓の輪郭を象っていた。彼女がもう、この世界に属する生あるものではないという証明。
「いえ、二人です」
僕はそう返す。不思議そうな顔をした店員の女性は一度首を傾げ、「失礼しました」とだけ言った。大方、後からもう一人合流するのだろうと解釈したに違いない。僕にとっては好都合だった。
店内の二人掛けの席に案内される。着席と同時に、春香がメニュー表を手に取り、微笑んだ。
「これも、まだあるね」
僕にはそれが何のことか、すぐに理解できた。向日葵畑のすぐ近くに店を構えるカフェだからだろうか、それにあやかって『ひまわりジュース』なるものが売られているのだ。以前僕らが来た時も、それを頼んだ。そして今回も。
オーダーを受けて待つこと二分。『ひまわりジュース』が一つ運ばれてくる。その正体はマンゴーとオレンジを使った果実ジュースだ。色以外に向日葵らしい要素はない。それでもここに来る客は大方、このジュースを頼んでいるらしい。確かに味は申し分ないが、一杯五百円はいくら何でも少し値が張る。
「うん。変わらず美味しい」
満足そうに彼女が零す。それだけで五百円の価値はあったかなと、呑気なことを考える。
しかし、会話は弾まない。
その理由は分かりきっていた。このデートが、〝あの夏〟を繰り返しているものだと、彼女が暗に認めているから。
【天使春香さん失踪事件】
二年前の夏。
彼女は突如、姿を消した。
八月十二日。今日のように、良く晴れた日のことだった。
明日も明後日も、一年後も十年後も、彼女と一緒に居られると、僕は無条件にそう信じていた。当たり前のように幸福は続くし、日常は恙無く進行されていくと、本気でそう思っていた。けれど、違った。運命というものはどうしても切り離すことができなくて、地続きになった僕らの人生を脅かす。
夏の風物詩の一つともいえる向日葵を見に行こうと、彼女が言った。それはとても魅力的な提案だったし、僕も向日葵畑に興味があった。常に太陽の方を見続けている向日葵の在り方は、まるで春香という少女だけを見続けて生きている僕にそっくりだと、そんなシンパシーを感じていた。
今日と同じく、バスの中はガラ空きだった。平屋が連なる古民家の群れを抜け、山々が青く繁る景色を眺めながら、他愛もない話をして目的地まで時間を潰した。繋いだ手のひらは夏の温度に負けないくらい温かく、触れた個所から安息が滲んでいく。
到着するとまず、いま訪れているカフェに入って『ひまわりジュース』を飲んで、火照って敵わない体を冷却しながら、これからの予定を話し合った。向日葵畑を見終わったら、近くでやっている夏祭りに顔を出そうとか、帰り際に川辺へ寄って花火をしようとか、そういう話を。
十五分もしたらカフェを出て、向日葵畑に足を踏み入れた。僕たちの背丈よりも幾分か高い、小さな太陽の群生が僕らを迎え入れる。陽の光を浴びて伸びやかに、確かな生命を感じさせるしなやかさを湛えたそれらは、夏という季節を謳歌しているように見えた。
「すごいね。想像以上だよ」
そういう彼女の瞳には、無数の向日葵が反射していた。余程楽しみにしていたのか、彼女は幾度も笑顔を零して向日葵に触れた。
「知ってる? 向日葵の種って食べられるんだって」
そんな豆知識を披露しながら、彼女は悠々と、手を後ろに組んで向日葵畑を歩いていく。それはさながら絵画のような光景で、僕はただ見惚れる他なかった。燦然と輝く夏の太陽や時折吹く微風さえ、まるで初めから彼女の存在を高貴たらしめる要素の一つでしかないように思えた。
そんな景色の中に、僕は一つ異物を認めた。果たしてそれは売店だった。遠目に見ただけでも十人ほどがその売店に立ち寄っているのが見えた。その商品の中には、麦わら帽子があった。夏にピッタリな、白のワンピースを着ている彼女に似合いそうだと思い、向日葵畑に見入っている彼女に一声かけてから、麦わら帽子をプレゼントしようと売店へと足早に駆けていった。
……それが大きな過ちだった。
麦わら帽子を買って彼女のいたところへ戻ると、そこに姿は無かった。
まるで、初めから誰も居なかったかのように。
彼女にメッセージを送るも、既読が付かない。薄ら寒いものが僕の背中を撫でていく。そんな嫌な予感は的中して、向日葵畑のどこを探しても彼女は見つからなかった。夏の茹だるような暑さが精神と体力を削っていく。そして果てには、無造作に地面に転がる彼女のスマホを見つけてしまった。
「春香!」
名前を叫ぶ。周囲にいた人が一度だけ僕を振り返り、我関せずといった風に目を背けていく。孤独感が蔓延し、喪失感が肌を舐める。恐怖が増幅し、足元が覚束なくなる。
「春香、春香!」
何度も名前を呼んだ。何度も何度も何度も何度も。
けれど、答える声はない。
一時間ほど探しても、その姿を認めることは無かった。
——付近の交番に直行して、状況を説明した。僕は大慌てで行方不明届を提出した。それから陽が落ちるまで、向日葵畑の周辺で叫んで探し続けた。それでも、彼女は見つからなかった。
夏のある日、彼女は唐突に姿を消した。
嘘のように。蜃気楼のように。
それが、【天使春香さん失踪事件】の真実だ。
まるで神隠しだ、と僕は思う。
夏という季節の、あらゆる隙間に居座る神が、彼女を連れ去ってしまったような。
「——……」
まだ新鮮な傷口を抉るように、スマホで事件の詳細を検索する。
一番上に出てきたリンクをタップする。
『八月未明、S県△△市内で失踪事件が発生した。行方不明となっているのは県内の高校に在籍している天使春香(あまつかはるか)さん十八歳で、当時春香さんは向日葵畑を散策中だったという。恋人の証言を元に現場検証が行われたが、有力な手掛かりとなるものは発見できなかった。警察は、誘拐事件を視野に捜査を進めているという——』
口内に苦みが蔓延する。
僕が犯した最大の過ち。
未だ、彼女は見つかっていない。
しかし、こうして幽霊として現れたということは、彼女はもう亡くなっているのだろう。
「なぁ、」
意を決して口を開く。
「あの日、何があったんだ?」
彼女がこちらを見遣る。黒く澄んだ、超然とした夜空を閉じ込めたみたいな瞳が僕を射抜いた。
「知りたいの?」
その問いに、僕は頷かなかった。
知りたくないといえば嘘になる。だが。
あの日、突如として行方不明となった彼女の身に何が起きたのか、聞いてしまえばもう、彼女が僕の傍を離れてしまうのではないかという懸念があった。今度こそ永劫の別れが訪れてしまうのではないかと。だから頷けなかった。たとえ全てが闇の中に葬り去られることになっても、僕は彼女の最期を知るべきではないと。
いや、こう言い換えることもできるかもしれない。
……聞く勇気がなかったと。
「僕は、今の幸せを大切にしたい」
その瞳を見つめ返して、言葉を紡ぐ。
すると彼女は、嬉しそうに破顔した。
「うん。私も」
だから、過去はもう、どうだっていい。
これ以上の地獄に、踏み入る必要はない。
今ある幸せを、暗い過去のせいで台無しにしたくない。
彼女といられる僅かな時間を、少しでも幸福の水色で染め上げたいから。
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