第20話



 春香と出会って一ヶ月もすれば、僕のカメラロールは彼女で埋め尽くされた。それもそのはずで、部活動の時も、そうでない時も、彼女といることが大半だったから。不意に見せる笑顔を、物憂げな横顔を、彼女の名前のように優しい雰囲気を纏うその後ろ姿を、一瞬だって見逃したくなくて、ただひたすらにシャッターを切った。移ろう季節を背景に、写真は段々と数を増していく。彼女との出会いを通して、無趣味だった僕が、初めて趣味と言えるものを持ったのだと、そう実感した。


 趣味と言えば、もう一つそう呼べるものができた。それは、音楽を聴くことだ。


 春香はよく、イヤホンをしていた。時と場所を選びはするものの、僕といる時にもそれなりの頻度で音楽を聴いていた。初めは気が引けて話題に挙げなかったけれど、一度勇気を出して訊いてみた。


「いつも何を聴いてるんだ?」


 ファストフード店の店内で向かい合って座っていた彼女が、一瞬きょとんとした後、相好を崩して右耳のイヤホンを外し、徐に僕へ差し出してきた。


「一緒に聴こ?」


 日常の中に溶け込んでいる、彼女の些細な仕草や行動に、僕は随分と惹かれていた。それは大方、こうやって突然心を揺さぶることをしてくるからだろう。


 胸の高鳴りを悟られないよう、冷静にイヤホンを受け取って右耳に装着する。一瞬の無音の後、春香の操作に従って音楽が流れ始める。優しいギターソロから始まり、全体的に控えめで優しいメロディーが、歌詞と一体となっている曲。どうやらラブソングらしい。


「これね、いつか誰かと一緒に聴きたいな、って思ってたの」


 緩くはにかむ。


「なんて曲なんだ?」


「キリンジの『エイリアンズ』」


 歌というものに触れる機会が、合唱コンクールだとか小学校の音楽の授業くらいしか無かった僕は、もちろん知らなかった。名前を憶えているバンドグループなど、ビートルズくらいだ。


「そのバンドが好きなのか?」


「うーん……ちょっと違うかも」


 思案する間を開けて、春香はアンニュイに笑んだ。


「音楽を聴いている間は、他のことを考えなくていい感じがするんだ。だから、どのバンドが好きだとかそういうのは無くて……私を私だけの世界に連れて行ってくれる曲が好き」


「その内の一つが、この曲なのか」


「そうだね」


 他にもたくさんあるんだよ、と彼女は嬉々として語った。音楽に対して浅学な自分を恨む日が来るなんて、想像もしていなかったことだ。


 きっと、『私だけの世界』に連れて行ってくれる音楽について教えてくれるというのは、それだけ僕に心を赦して、内側を見せてくれているということなのだろう。ならば僕もそうするべきだと……そうしたいと思っているのに、僕には何も無かった。心の形をした空っぽの容器が心臓に収まっているだけだった。


「……あ、喋り過ぎかな、私」


 僕の意識が他のことへ向いていることを目敏く汲み取った彼女が、おずおずといった様子でそんなことを口にする。


 僕は慌てて否定した。


「違うんだ。とても楽しいし、何より嬉しい。ただ……」


 躊躇いからか、それとも他の何かが邪魔をしたのか、一度口を閉じてしまう。


「……君がこうして話してくれているように、僕も何か話したいと思ってはいるんだ。でも、気付いたんだ。僕は君に比べて、どうしようもなく空っぽなんだ、って」


 これもある種の心の開示だと、今にして思う。


 春香は、僕の言葉を聞いて嬉しそうに相好を崩した。その態度が余りに予想外で、内心困惑した。しかし、その表情が持つ意味を知った時、どこまでも彼女は彼女なのだと、僕は思い知らされた。


「私は、嬉しいよ。だって……これからたくさん、色々なものを詰め込むことができるんだから」


 桜のような——いや、天使のような笑顔だった。


 高校一年の冬。僕はようやく、自分の感情に気付いた。

 どうしようもなく、ただ、心の底から。

 天使春香という少女が、好きなのだと。




 その日以降、僕のスマホには楽曲アプリが加わった。


 春香が話題に出したものを片っ端から追加して、聴き入る。そうすることで、疑似的に彼女が生きている世界に没入しているように錯覚できた。彼女の言う通り、空っぽだった僕の心には、少しずつ彼女の存在が詰め込まれていった。見方によれば侵食とも言えるだろうが、僕はそれが、痺れるほどの幸福だった。


 その内、僕にも好きな楽曲——彼女の言葉を借りるなら、僕を僕だけの世界に連れて行ってくれる曲——ができた。ただ、それを『ひとりになる』ために聴くことは無かった。音楽を好きになるきっかけをくれた、彼女のことを想って聴くことが大半だったから。


 互いの「何を聴いてるの?」という言葉が合図となって、言われた側がイヤホンを片方差し出し、楽曲に聴き入る時間が生まれた。二人きりになる部活動の時間も、放課後の寄り道も、駅で別れるまでの帰路も、その全てに音が彩りとなって日々を明るく照らしていた。踵を返して帰宅する途中でも、イヤホンを通して彼女が聴いていた楽曲を再生すれば、隣に春香がいるように錯覚できた。良い意味で、僕は錯覚に酔いしれていた。



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