第18話



 それからたっぷり二時間以上、他愛のない話をしながら校舎内を歩いたり、空き教室に忍び込んだりして時間を過ごした。行く先々で、僕は首に掛けた一眼レフカメラで彼女をフレームに収めた。後姿が半分、横顔がもう半分。撮影した枚数こそ少ないが、その一つ一つがまるで絵画のようで、彼女がいるだけで変哲の無い風景が舞台のワンシーンに塗り替えられていくようだった。


 非行をしているような錯覚から、僕らの間には高揚感が湧き上がっていた。意味もなく笑い合い、次はどこへ行こうかと、互いに意見を出し合って練り歩く。自然と、人目を避けるようなルートで。理科室の背凭れが無い椅子に座り、近くで足音がしている時なんかは、二人で息を殺して見つめ合っていた。そういう時間がどうにもむず痒くて、その足音が去った後はどちらともなく視線を逸らした。


 道中、互いに自己紹介のようなものをした。今更だと思われるだろうが、それくらいには僕たちの関係は薄かった。顔と名前を知っているくらいだ。


「写真部なんだ」僕が写真部に所属していると聞いて彼女は目を剥いていた。


「運動部のイメージがあったから、ちょっと驚いちゃった」


「そうかな」


 容姿に特徴はなく、背丈も平均的で、頭髪も校則に従い既定の範囲内に切り揃えている僕は、そう言われることに大きな違和感を覚えた。


「そういう君は、何部なんだ?」


 問うと、彼女は意地悪く相好を崩した。


「当ててみてよ」


 無理難題を押し付けられる。彼女ほど品行方正で何でも出来そうな人間が、どの部活に所属しているかなんて当てられるわけがない——そう思ったが、つい先刻の彼女の言葉を思い出した。


『私ね、みんなの前では過剰に振舞うの』


 優等生としての天使春香は、あくまで〝嘘の側面〟に過ぎないのだとしたら。ともすれば彼女は、他人に見られなくて済む——一人になる時間が多い部活に所属しているのではないだろうか。


「……美術部、かな」


 その返答に、彼女は緩く笑った。


「正解」


 美術部は週四日(金曜日以外の平日が活動日だそうだ)以外に、土日は自主活動となっており、活動方針としては緩いものだそうだ。それに加え、部員同士の交流も比較的控えめで、作品を制作するにあたって共同作業をする機会も、夏のコンクールのみらしい。それ以外の期間は完全に独立して製作に勤しんでも訝しまれることが無く、まさに彼女にとって理想の環境と言えるだろう。それでいて毎年、この学校は県内のコンクールに一作品は入賞しているのだから、実に質が高い。


「同じクラスの人もいるけど……普段話すことは無いし、部活が絡んでくると集団行動ってむしろ珍しいくらいだから、私としては大助かりだよ」


 なるほど彼女は、息を抜ける場面では徹底的にそうする質なのだと理解した。普段からクラスの中心に立っている(立たざるを得ない、というべきだろうか)彼女にとって、独りでいても何らおかしくはない美術部というのは、心の拠り所のようなものなのだろうか。


「普段はどんな絵を描いてるんだ?」


 興味本位でそんなことを訊いてみた。それがきっかけで、次の目的地が決定された。




「よかった……誰もいないみたい」


 そっと扉を開けて部屋の中を確認した春香が安堵の息を吐く。手招きに従って室内に入ると、広々とした空間が外周から埋め尽くす形で作品が並べられていて、普段の教室よりも二回りほど手狭になっていた。


「たくさんあるな」


「全員分の作品……卒業生のものもあるからね」


 布が掛けられたイーゼルの森を掻き分けていた彼女が、立ち止まる。その目の前には他と同様に布に隠されているイーゼルがあり、受台の部分に『天使春香』の文字が認められた。


 春香が布の端を持ち、まるで小さく開けられた窓から吹き込む微風のように、ヴェールを剥がす。そこに隠されていた彼女の作品は——


「顔?」


 小さく頷く。


「何を描いてもいいって言われて、真っ先に思いついたのが……肖像画だったから」


 入部するまでは美術に関する知識は人並み程度しかなかったそうだが、彼女の作品が放つ存在感は、もはや威光とさえ呼べる気がした。油絵の重厚な質感を生かし、最低限の色使いで以て表現し、純白を基調とした石膏のような仕上がり。陰影によって作り出された輪郭は、現実の見え方を揺るがすような迫力があった。


「すごい」


「そうかな」


「あぁ。自信を持っていい」


 僕の無責任な言葉に、彼女は「ありがと」と恥ずかしそうにはにかんだ。


 この作品を目に焼き付けるだけでは勿体ないと思い立ち、首に掛けていた一眼レフカメラを構えて構図を探し始めた。他の部員たちの作品に埋もれている今の状態を上手く役立てつつ、被写体である彼女の作品を中央に置き、被写界深度の調整をする。


「……戸村くんは、どうして写真部に入ったの?」


 手が止まる。


 どこでも良かった、楽そうな部活を適当に見繕って入部した、と自分自身に言い聞かせてきたが、そこに働いていた深層心理が、彼女と出会った今では理解できる。


「……多分、『見られたくない』から」


 その言葉に、春香が小さく首を傾げる。

 たっぷり十秒ほど思考し、適切な言葉を探す。


「要するに……撮り手に回れば、『見られる』立場になる機会が減ると思ったんだ。僕がカメラを向け続ける限り、僕は『見る』側に居続けることができるって、そう考えたんだと思う」


 それを聞いた彼女は、神妙な面持ちで自身の作品に向き直った。


「——やっぱり、似た者同士だね」


 僕らはどうしようもなく、一人になりたかった。

 それは物質的な意味ではなくて、精神的な意味が大きかった。僕らが生きる、数え切れないほどの人々が生きるこの世界で、個人的な小宇宙に閉じ籠っていたかったのだ。


……だからこそ。


「だからこそ、戸村くんとなら——一緒に歩いていける気がする」



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