第11話
七月二十二日。
どうやら今日が大学の講義納めらしい。結局春学期に一度も講義へ出席できなかった僕には関係のないことだが。
健康的な生活が可能になってからというもの、時間を持て余す機会が増えた。果たして良いことなのか、それとも悪いことなのか意見が分かれそうだが、僕としては前進している感覚があったので、その暇な時間というものを存分に楽しもうと——そういう風に何かを楽しもうと思えること自体、以前の僕では考えられなかった——様々なことを試した。
その一つが、もう一度音楽を聴き始めることだった。
「祐二さん、いつも音楽聴いてたもんね」
まるで見てきたかのように言うが、ハルカとはまだ出会って一ヶ月も経っていない。
「そうだけど……君に言われるのはどうにも気味が悪いな」
「あははっ、なんで知ってるんだー、って?」
「今更だけどな」
呆れ半分で返事をしつつ、スマホにダウンロードしてある楽曲アプリを立ち上げ、一番上に表示されているプレイリストを再生する。
耳元で流れ始めたのは、フランク・シナトラの『ザッツ・ライフ』だった。ブルース交じりの曲調に、随分と懐かしさを覚えた。プレイリストの名前を見ると、〈雑多〉と表記されている。作成した当時の僕がよく聴いていたり、気に入っていた楽曲が詰め込まれているのだろう。
「何聴いてるの?」
手持ち無沙汰の彼女が訊いてくる。
「フランク・シナトラの『ザッツ・ライフ』」
そこで何か合点がいったのか、あっと目を見開いてハルカが続ける。
「次の曲、教えてあげる」
一瞬、何を言っているのか理解ができず硬直する。
——次の曲? このプレイリストの、次に再生される曲のことを言っているのか?
いくら何でも、無理があるだろう。そう思いつつも僕は、プレイリストの一覧を開き、『ザッツ・ライフ』の下に位置する楽曲を目視で確認した。それとほぼ同時、ベッドの上から声が聞こえた。
「マイブラの『ホエン・ユー・スリープ』でしょ」
「————」
背筋を寒気が奔った。
その回答は見事的中していた。
「…………なぁ、君は一体何者なんだ?」
幾度目かとなる同じ質問を投げかける。そうせざるを得ない。
そしてやはり、彼女はこう答える。
「救いの天使だよ」
いつもであれば、ここで折れていただろう。だが今日は違う。僕という個人の情報をいくら握っているとはいえ、今回ばかりは根源的な恐怖を覚えた。何か少しでもいい、この恐怖を和らげるために核心的な回答が欲しくなった。
「なぁ、頼むよ。何でもいいから、キミに関することを教えてくれ。今回ばかりは見逃せない」
僕の懇願に、彼女は少し目を剥いた。ここまで食い下がってくることが無かったからなのか、それとも別の理由があるのか、僕には判別できないが……ただ、この時なぜか、僕の中に後悔の影がちらついた。彼女の瞳の奥に、水色が見えた気がした。
「そこまで言うなら……明かせる範囲で教えてあげる」
イヤホンを外す。フランク・シナトラの歌声が世界から消える。
彼女は眉を寄せ、たっぷり十秒ほどの沈黙を経て口を開く。
「私は、訳があって祐二さんのことをよく知ってる。でもその情報量は、〝よく知ってる〟で済まされないものっていうことも理解してる。でもね、そうせざるを得ない理由があるの。……どうしてもその理由は口外できないけれど、信じて欲しい。それに——」
一度言葉を区切り、彼女は言った。
「私がこれだけ祐二さんについて詳しい理由も、私の正体も、あなたは知っているはず」
「は」
……知っている?
疑問を口にするより早く、彼女が再び話し始める。
「そう、知ってるはずなの。私のすべてを。私が存在しているということが、どういう意味を持っているのか。どうして私があなたの救いとなるのか。どうして私が天使を名乗るのか。——でも、あなたが気付いてしまえば、もう救いの道は無くなる。祐二さんが〝普通〟の生活に戻ることは、できなくなってしまうの」
捲し立てるように吐露したそれらの言葉を、嘘だと一蹴することもできる。いや、むしろ嘘だと疑うべきだ。僕が彼女の正体を既に知っているなど。
だが。
余りに逼迫した感情を、僕は感じ取った。
口から出まかせで乗り切ろうとしているとは、到底考えられない。真実を示す言葉として紡ぎ、僕へ伝えているのだと思わされる。
だからこそ、疑問が浮かぶ。
僕が彼女の謎を全て知っているとして……それを解明することが、なぜ救済への道を断つことになるのか。なぜ、彼女が僕の全てを知るに至ったのか。なぜ、彼女が僕を救おうとするのか——いや、救いの天使はなぜ彼女でなければならなかったのか。
結局、これまで同様に彼女の正体は判明しなかったが……すべてを解き明かすことが可能なパズルのピースは、僕自身であることを教えられた。これは大きな進捗——と言っても良いのだろうか。
「——分かったよ。信じる。もうこれ以上、深く追求しない」
僕が観念すると、彼女の顔に表情が戻る。安堵の滲んだ弱々しい笑顔。
「うん。それがお互いのためだよ」
それっきり、彼女はいつもの調子に戻った。僕はと言えば、切羽詰まった不安げなハルカを初めて目にしたことも相まって、どうにも落ち着かなかった。この異常な現実の原因……あるいは根源が僕自身にあるなど、予想だにしていなかったから、色々な考えが脳内を駆け巡り、その全てが針を刺した風船のように萎んで消えていった。謎を解明するために問い質したつもりが、疑問が増えて返ってきたのだから、頭を抱えるしかなかった。
その日は、昼食時を除いた殆どの間、音楽に浸っていた。
途中からはハルカとイヤホンを分け合い、片耳で聴いた。そうやって同じ音楽を二人で聴く時間が嫌にむず痒く、沈黙を慌てて埋めまいと話題を探しては話しかけていた。そんな僕の必死な様子を、彼女は笑みを浮かべて揶揄ってくる。その笑みは夜空に浮かぶ月のようで、僕の心を容易く揺さぶる。これがいわゆる、尻に敷かれるということなのだろうかと、馬鹿なことを考えもした。
そんなハルカだが、とある一曲を聴いたときだけ、妙な反応を示した。
「あ……」
まるで、探し物を見つけたような。微かな吐息に混じって、言葉が漏れた。
その反応を示したのは、キリンジの『エイリアンズ』だった。ゆったりと落ち着いた曲調が流れ始めた瞬間のことだ。
「どうした?」
そう訊くも、「なんでもないの」「ただちょっと、嬉しくて」「ううん、忘れて」と、曖昧で意味深長な回答が返ってくるばかりだった。まるで踏み込むなと言われているような。
そういう回答をされてしまうと、僕は迂闊に踏み込めない。
彼女が僕を救うために来たこと、そして僕が彼女の謎を知っていて、その全容を理解してしまうと彼女が僕の元へ来た意味が無くなってしまうということ。これ程惹かれている相手のことを、何も詮索してはいけないというのは、どうにも歯痒い。ただありのままを愛せば良いのだと誰かが言うかもしれないが、そうもいかないのが現実だ。
……そうだ。僕はもう、彼女のことを知りたいと思う理由が変化している。
確かに、素性の知れない相手と同居するというのは、気の休まらないことだ。でも僕は、外側の彼女を十分に知る期間を経て今を過ごしている。今はもう、『素性の知れない少女』ではない。『ハルカ』という一人の少女なのだ。
謎の存在を、既知の存在にするためではない。
一人の人間として、彼女のことを知りたい。
「——話したくなったら、話してくれ。いつでも聞くから」
きっとその機会は訪れないだろうと理解していながら、そう呟く。
「うん……いつか、ね」
幾許かの寂寥を纏った、溜息にも似た言葉が返ってくる。
今にも泣きだしてしまいそうな、歪な笑み。
——一体何が、君をそうさせるのだろう。そう考えてみたけれど、きっとそれは僕が原因だ。僕がいるから。僕が何にも気付かずに、彼女の隣に居るから。
これから、こういう場面が増えていくのかもしれないと想像すると、どうにもやるせないというか、不甲斐ない。彼女と一緒にいるためには、一切に関心を持たず、〝普通〟になるしかない。けれど、そうやって僕が正常な人間になってしまえば、彼女は僕の元を去っていくのだろう。そうなると、僕にはもう、駄目な人間でい続けるしか手段が無かった。しかしそれは、僕を救いに来た彼女に対して失礼だ。……堂々巡りの思考をかなぐり捨てるように、耳元から流れてくるキリンジの『エイリアンズ』に聴き入った。
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