第37話 ありふれた話

 ――ガキだったんだ。目の前の出来事が世界のすべてだと、そう思っていた。


 俺は、自分で言うのもなんだが、要領が良かった。勉強、スポーツ、その他なんでも、習得するまでが早かった。


 そんな奴が地元を出たら、自分なんて凡人のひとりにすぎないと気づいて挫折した。ただそれだけの、ありふれた話。


「大丈夫か?」


 去年の暑い夏の日。適当な日陰の段差に座り込んでいた。

 こんな日に練習が終わるまで走り続けろなんて無理だ、と心の中で悪態をつきながら休んでいた。


 この頃の俺は、すっかりひねくれていた。魔が差して、前日の練習で片づけをせず帰宅したのだ。そのことが監督にバレて、今日は罰走を命じられていた。


「夏原か……」

「よっ! 日向は……ここで何してんだ?」


 思わぬ人物の登場に内心驚く。同じクラスの夏原涼音。テニス部に所属していて、学年一の美少女・天城琴花と一緒にいるイメージが強い。


 汗で濡れているが、肩上で切りそろえられた癖の少ない黒髪に、少し焼けた肌。背はそこまで高くないものの、顔の小ささと、すらりとした体躯が、テニスウェアを着ているせいか際立って見える。


 確かに、天城は美少女だが、夏原もそう言って差し支えない――そう思ってしまった。

 どうでもいいことを考えていたら、質問されたことを思い出し、適当な言葉を探す。


「別に……ただ、休んでただけだ……」

「そっか! 暑いもんな!」


 そう言って、隣に腰掛ける彼女。ぐびぐびと手に持つスクイズから水を飲む。


「なんで座った?」

「いや~、なんとなく?」


 ただのクラスメイトで、しかも女子。特段仲良くもない。ペースを乱される感じがして疲れる。サボっているという後ろめたさもあり、正直言って、どっかに行ってほしかった。一人にしてほしかった。


 居心地の悪さを感じていると、ふと気づく。罰走中に見えたテニス部のグラウンドには、誰もいなかった気がする。


「そもそも、なんでここにいるんだ?」

「自主練!」

「そっか」

「うん!」


 自主練。今思うと、自主練だとか、自学だとか、そういうことをした記憶はあまりない。

 そりゃあ、ずっと努力していたやつらには敵うわけがない。最近よく顔を出す自己嫌悪が胸を締めつける。


「日向は?」

「俺は……まあ、……罰走」

「罰走か……大変だね!」

「自業自得ってやつだ」

「涼音も走るし、気合い入れてがんばってこ!」


 なんというか、今の俺には夏原が眩しすぎる。悲しいかな、この状態が続くなら罰走していた方がマシな気分だった。


 まあ、おそらく励ましてくれたんだろうし、感謝ぐらいはしておくか。横目で夏原の方を見ると、この暑い中、ニコニコしながら座っている。


「なあ」

「ん?」


 そんな彼女の様子にあてられたのか、口から出た言葉は予定と違っていた。


「夏原はさ、自主練が意味ない……とか思わないのか?」

「意味ない?」

「どれだけ頑張っても、その努力が報われるとは限らないだろ?」

「確かにね」

「じゃあ……」

「でもね――」


 俺の言葉を遮って夏原が話し始める。口元に小さな笑みを浮かべて。


「何かやれるのに、それをしなかったことを悔いるなんてこと、したくないんだ」


 そう言った彼女の横顔は美しかった。

 出てきた答えは、シンプルで。シンプルなのに、俺の胸に刺さっていた杭を、簡単に引き抜いてしまった。


 俺は、後押ししてほしかっただけなのかもしれない。今からでも頑張る価値があると。


 確かに、可能性に蓋をして振り返って後悔するくらいなら、報われなくても足掻く方がよっぽどマシだ。


 なんだか、泣きそうな気分になる。

 ――俺はまだ終わってない。夏原の言葉で、そう思える自分がいることに気がついた。


「な、なんか柄にもないこと言っちゃった、へへ……」


 恥ずかしそうにはにかむ彼女。その仕草のすべてが魅力的に感じられた。


「じゃ、涼音は戻るね!」

「……おう」

「バイバイ!」


 さっと立ち上がり、また自主練へと戻っていく夏原。最後に見せた、向日葵のような笑顔。


 目を見開く。蝉の声が遠ざかる。俺の脳裏に、その光景――彼女の笑顔が、鮮明に焼き付けられる。


 今思うと、俺はこの時すでに惚れていたのかもしれない。夏原涼音という人間に。


 その笑顔を、叶うなら一番近くで見たい。そう思ってしまったんだ。


「……ま、またな」


 精一杯の別れの挨拶。今日の出来事で二人の関係が変わることはなかった。


 やっぱり、ただのクラスメイトで。

 でも俺の世界では、夏原が一際輝いて見えるようになった。


 ――そんな、ありふれた話。






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