第47話『静かな怒り』

部屋に飛び込んだ俺の目に映った光景に、一瞬、思考が停止した。

床に倒れ伏す、人形のように動かないピム。

そして、その横で血の気の引いた顔で立ち尽くす、母のマリカ。


だが、俺の心はすぐに、橘正人としての冷静さを取り戻した。

パニックは、何の解決にもならない。

俺は、狼狽するマリカには目もくれず、一直線にピムの元へ駆け寄った。


「ピム!」


その体を抱き起こし、呼吸と脈を確認する。幸い、乱れてはいるが、弱々しいながらも生命の鼓動は感じられた。過労と極度の精神的ストレスによる、一時的な失神だろう。俺は、前世の工場で何度も経験した応急処置の知識を元に、そう判断した。


俺は、ピムの体を静かに、しかし力強く抱え上げると、彼女の部屋のベッドへと運んだ。

そして、彼女を横たえ、ベルトなどを緩めて呼吸を楽にさせてから、ゆっくりと、マリカの方を振り返った。


俺の顔には、もはや子供の無邪気さなど、一片も残っていなかった。

そこにあったのは、氷のように冷たい、静かな怒りだった。


「……どういうことか、説明してもらおうか」

俺の声は、自分でも驚くほど、低く、そして冷たく響いた。


「わ、私は、何も……! ピムが、急に……!」

マリカは、狼狽しながら言い訳をしようとする。

俺は、その言葉を、遮った。


「嘘をつくな」


たった一言。だが、その言葉には、四十五年分の人生で培った、有無を言わせぬ重圧がこもっていた。

俺は、ゆっくりと彼女に歩み寄る。

マリカは、俺のその気迫に、思わず一歩、後ずさった。目の前の存在が、自分の知っている十二歳の少年ではないことに、彼女は本能で気づいたのだ。


俺は、彼女の目の前で、ぴたりと足を止めた。

そして、静かに、しかし心の底からの怒りを込めて、忠告した。


「ピムを、あんたの道具にするな」


マリカの目が、恐怖に見開かれる。

俺は、構わずに続けた。

「あんたのくだらない野心や、この家でのちっぽけな権力争いのために、彼女を巻き込むな。ピムは、あんたの所有物じゃない」


そして、俺は、この戦いにおける、俺自身の覚悟を、彼女に叩きつけた。


「彼女は、俺の、たった一人のライバルだ」

「俺が、正々堂々と打ち負かすべき、唯一の相手だ。あんたのような人間に、その前に壊されることだけは、俺が許さない」


その言葉と、十二歳の少年が浮かべるには、あまりに冷徹な瞳。

マリカは、一瞬、息を呑み、怯えるようにたじろいだ。

彼女がずっと警戒してきた「怪物」が、今、その牙を剥いて、目の前に立っていた。


俺は、もはや彼女に興味はないとばかりに、背を向けた。

そして、ピムのベッドの脇に座ると、洗面器の水で絞った冷たいタオルで、彼女の額の汗を、優しく拭ってやった。


部屋には、意識のないピムの、か細い寝息だけが響いている。

俺は、ただ黙って、彼女が目を覚ますのを待ち続けた。

背後で、マリカが、震えながら立ち尽くしているのを感じながら。


この日、ウォンラット家における、俺とマリカの間の、静かな戦争の火蓋が、切って落とされた。

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