第36話『小さな相談』
スズキとの「教科書のない授業」が始まって、数週間が経った。
俺たちの関係は、もはや家庭教師と生徒のものではなく、年の離れた、しかし対等な共犯者のそれに近かった。彼は俺に世界の動きを教え、俺は彼に、俺だけが知る未来の知識の断片を、それとなく示唆する。互いの頭脳が、化学反応を起こすように、新たなビジネスのアイデアを生み出していく、刺激的な毎日だった。
その日の授業の終わり。
俺は、ずっと考えていた計画を実行に移すことにした。
俺は、少し照れたような、十一歳の子供らしい表情を完璧に作り上げ、スズキに切り出した。
「あのう、スズキさん。ちょっと、相談があるんですけど……」
「ん? どうしたんだい、ボス。改まって」
スズキが、面白そうにニヤリと笑う。俺たちが二人きりの時、彼は俺を「ボス」と呼ぶようになっていた。
俺は、少し言いにくそうに、言葉を続ける。
「実は、自分でお金を稼いでみたいんです。お小遣いを、少しでいいから」
その言葉に、スズキは一瞬、拍子抜けしたような顔をした。
世界の経済を語っていた少年が、急に子供らしいことを言い出したのだから、無理もない。
「お小遣い稼ぎ、か。いい心がけだね。それで、何かやりたいことでもあるのかい?」
彼は、優しい家庭教師の顔に戻って、尋ねてきた。
俺は、待ってましたとばかりに、本題を切り出した。
「はい。僕、日本の漫画とか、テレビゲームが大好きなんです。それで思ったんですけど……」
俺は、彼の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「日本の漫画やゲームって、タイでは売れないものでしょうか?」
その瞬間、スズキの顔から、人の良い教師の笑みが消えた。
彼の目が、再び、鋭い商社マンのそれに変わる。
彼は、何も言わない。ただ、じっと俺の顔を見つめ、俺の言葉の真意を探っている。
「お小遣い稼ぎ」という、子供らしいオブラート。
「漫画やゲームが好き」という、完璧なカモフラージュ。
その裏に隠された、俺の本当の狙いを。
1990年代初頭のタイ。日本のサブカルチャーは、まだ一部のマニアだけのものだ。海賊版が細々と出回っている程度で、正規のビジネスとして成立しているとは言い難かった。
だが、俺は知っている。
これから数年で、『ドラゴンボール』や『スーパーファミコン』が、アジア中の子供たちを熱狂の渦に巻き込むことを。
そこに、巨大な市場が生まれることを。
俺の言葉は、単なる子供の思いつきではない。
未来知識に裏打ちされた、緻密な市場分析に基づいた、事業提案なのだ。
長い沈黙の後、スズキは、深く、そして静かに唸った。
「……なるほどな」
彼は、目の前の十一歳の少年に、改めて畏敬の念を抱いていた。
世界の金の流れを語ったかと思えば、今度は、まだ誰も気づいていない、足元の巨大な金脈を掘り当てようとしている。
「面白い。実に面白いじゃないか、その話」
スズキは、すっかり商売人の顔に戻って、身を乗り出してきた。
「具体的に、君はどうやって、それをビジネスにしようというんだい?」
俺の、小さな、しかし壮大な野望の第一歩が、今、静かに始まろうとしていた。
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