第34話『四つの言語』
スズキとの間に、奇妙な連帯感が生まれてから数日後。
父サクダーが手配した、もう一人の家庭教師がウォンラット家にやってきた。
潮州会館からの紹介でやってきた、陳(チェン)老師と名乗る、小柄で痩身の老人だった。彼は、この地に根を張る華僑たちの、ビジネスと生活に必須の言語、潮州語の専門家だった。
「では、始めましょうか」
リビングのテーブルで、俺と陳老師は向かい合っていた。部屋の隅のソファでは、スズキが、あくまで「ウィンの教育係」という立場で、その様子を静かに観察している。
陳老師は、まず潮州語の複雑な声調(トーン)から説明を始めた。
「よろしいか、坊ちゃん。我々の言葉は、音の高低が違うだけで、全く意味が変わってしまう。一朝一夕で身につくものではありませぬぞ」
その言葉には、長年、多くの生徒を教えてきた者としての自負と、目の前の少年に対する、穏やかな侮りが含まれていた。
だが、彼の予測は、開始五分で打ち砕かれることになる。
俺は、陳老師の発音を一度聞いただけで、その音の高低、長さ、響きを完璧に模倣してみせた。それだけではない。
「老師。今の音は、日本語の『軽声』に近い響きですが、音韻学的には、下降調の変形と捉えるべきですか?」
「この単語の文法構造は、タイ語よりも、むしろ英語のSVO構造に近いですね」
俺は、橘正人として蓄積してきた言語学の知識と、ウィンとして持つタイ語、そしてスズキから学んでいる英語の知識を総動員し、潮州語という新しい言語を、パーツごとに分解し、再構築していく。
それは、もはや「学習」ではなかった。未知のプログラムを、凄まじい速度で「解析」していく作業に近かった。
一時間の授業が終わる頃には、俺は陳老師と、簡単な潮州語での質疑応答ができるようになっていた。
陳老師は、開いた口が塞がらなかった。五十年間、教鞭をとってきたが、こんな生徒は見たことがない。彼の額には、信じられないものを見るような、脂汗が滲んでいた。
授業が終わり、茫然自失といった様子の陳老師を、父サクダーが丁重に見送った後。
リビングには、再び俺とスズキ、二人だけが残された。
スズキは、ソファから立ち上がると、感嘆とも、呆れともつかないため息をついた。
「……日本語、タイ語、英語、そして今度は中国語か。君の頭の中は、一体どうなっているんだい?」
俺は、陳老師が残していった教科書をめくりながら、平然と答えた。
「必要なツールを、インストールしているだけですよ。俺の野望を達成するためのね」
スズキは、ゆっくりと俺のそばまで歩いてくると、俺の目を見て、真剣な声で言った。
「君の言う『船』は、とんでもない性能を持った、怪物のような船になりそうだな」
その言葉に、俺は教科書から顔を上げた。
そして、前回の会話の続きを、彼に促す。
「ですが、スズキさん」
俺は、静かに、しかし力強く言った。
「どんなに高性能な船でも、それを動かす、信頼できる船長がいなければ、ただの鉄の塊だ」
「俺には、あなたが必要だ」
俺の真っ直ぐな視線を受け、スズキは、覚悟を決めたように、深く頷いた。
彼の、最後の迷いが消えた瞬間だった。
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