第26話『ピムの焦り』
夜が、ウォンラット家の邸宅を静寂で包み込んでいる。
時刻は、とうに真夜中を過ぎていた。母屋の明かりは全て消え、誰もが寝静まっているはずの時間。
だが、別棟にあるピムの部屋の窓だけが、煌々と明かりを灯していた。
部屋の中は、まるで戦場のようだった。
ベッドの上にも、床の上にも、開かれた教科書や問題集が散乱している。その中心で、ピムは一人、机にかじりついていた。
彼女の脳裏に、今日の昼間の家庭教師の言葉が、何度も繰り返し再生される。
『素晴らしい! ウィン君、この解法は実にエレガントだ。大学レベルの発想だよ』
教師が、手放しでウィンを賞賛していた、あの光景。その隣で、同じ問題が解けずに唇を噛み締めていた、自分の惨めな姿。
「……くっ」
悔しさで、握りしめたシャーペンがミシリと音を立てた。
なぜ、届かないのだろう。
自分だって、学校ではずっとトップクラスの成績だった。誰よりも努力している自信があった。それなのに、ウィンの前では、その全てが無意味に思えてくる。
まるで、自分が見上げる山の遥か上を、彼は涼しい顔で歩いているかのようだ。
母マリカの言葉が、耳の奥で響く。
『いいこと、ピム。あの坊やに負けることは、私たちの全てが終わることを意味するのよ』
分かっている。これは、ただの受験勉強ではない。
この家で、母と自分が生き残るための、負けられない戦いなのだ。
だが、その壁はあまりに高く、あまりに分厚い。
ピムは、ふとウィンのことを思った。
最近の彼は、変わった。以前のような子供っぽい意地悪さは消え、時折、驚くほど大人びた顔をする。保健室で、黙って氷嚢を当ててくれた時の、不器用な優しさ。宿題で困っている時に、さりげなくヒントをくれた、あの日の夜。
もし、彼がただの嫌な奴だったら、どれだけ良かっただろう。
憎しみだけを力に変えて、戦うことができたのに。
あまりの疲労と、心の重さに、ピムの瞼が自然と落ちてくる。
もう、やめたい。眠ってしまいたい。
彼女は、ぼんやりと窓の外に視線を向けた。母屋にある、ウィンの部屋。彼の部屋の明かりは、とっくに消えている。きっと、彼は今頃、静かに寝息を立てているのだろう。自分と違って、何の苦労もなく……。
その考えが、彼女の心に、最後の火を灯した。
「……負けない」
呟いた声は、自分でも驚くほど、強い響きを持っていた。
「あなたにだけは、絶対に、負けたくない……!」
ピムは、勢いよく立ち上がると、洗面所で顔を洗い、濃いお茶を淹れた。
そして、再び机に向かう。新しい数学の問題集を開き、その第一ページを、燃えるような瞳で睨みつけた。
もし、彼が天才だというのなら、私は、天才を超える努力をするまでだ。
その頃。
母屋の、ウィンの部屋の明かりもまた、静かに灯っていたことを、ピムは知らなかった。
だが、彼が机の上で広げていたのは、受験の参考書ではない。
たった一枚の、色褪せたモノクロの写真。
彼は、その写真に写る「橘製作所」の看板を、ただじっと、見つめていた。
同じ夜、二人の少年少女は、それぞれの秘密と、それぞれの戦いを胸に、誰にも知られず、机に向かい続けていた。
二人の運命が交差する、その日に向かって。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます