第20話 龍と虎、相見える刻
両雄の信念が激突する川中島。
魂のぶつかり合いが始まる。
川中島の平野は
夜明け前の静寂に包まれていた
しかし
その静寂は
長くは続かない
深い霧が
大地を覆い隠し
視界はほとんどない
武田軍と上杉軍は
互いに布陣を終え
決戦の時を待っていた
草木は露に濡れ
冷たい湿気が肌を刺す
戦場の空気は
死の匂いを帯びていた
死はまだ姿を現していない。
だが、霧の底にうずくまり、息を潜めている。
草木すら、沈黙してそれを迎える。
遠くから
兵たちのうめき声や
甲冑が擦れる音が聞こえてくる
誰もが
これから始まる
激しい戦いに
不安と期待を抱いていた
謙信は
本陣の天幕の中で
静かに座していた
かすかに揺れる蝋燭の炎が
彼の面差しを淡く照らしていた
彼の心は
研ぎ澄まされていた
昨夜の夢の記憶が
再び彼をよぎった
綾姫との契りの残響が
彼の魂に深く刻まれ
神性を失い人として生きる
自らの使命を
改めて確信していた
彼は
胸に手を当てた
そこには
確かに
綾姫の残した
「契り」の証が
脈打っている
その時
天幕の外から
かすかな物音が聞こえた
謙信は
静かに顔を上げた
直江兼続が
天幕の入り口に立っていた
「謙信公…
夜明け前ですが
武田軍に動きが見られます」
兼続の声には
緊張感が滲んでいた
謙信は
静かに頷いた
「承知した」
謙信は立ち上がり
甲冑を身につけた
その動作は
迷いがなく
彼の内なる決意を
静かに示していた
兼続は
謙信の瞳の奥に
燃えるような光を見た
その光は
神のそれとも
人のそれとも異なる
深く澄んだ輝きだった
「公…」
兼続は
言葉を失った
謙信は
そんな兼続に
視線を向けた
「兼続…
出陣の準備を」
その声は
静かだったが
鋼のような意志が
込められていた
兼続は
深く頭を下げ
天幕を後にした
彼の心には
謙信への畏敬の念と
そして
この戦を
共に戦い抜くという
強い決意が宿っていた
謙信が天幕を出ると
冷たい霧が
彼の頬を撫でた
空はまだ暗く
星々が瞬いている
しかし
東の空は
わずかに白み始めていた
遠くから
武田軍の軍鼓の音が
かすかに聞こえてくる
その音は
戦の始まりを告げる
武田信玄の戦略
「啄木鳥(きつつき)戦法」の合図だ
信玄は
別働隊を編成し
上杉軍の背後を襲わせることで
謙信を本陣から誘い出し
本隊で挟撃するつもりだった
謙信は
その策を
見破っていた
彼の瞳には
信玄の狙いが
鮮明に見えていた
上杉軍は
静かに
しかし確実に
布陣を変えていく
謙信は
兵たちに
指示を出した
その声は
霧の中に吸い込まれるように静かだが
兵たちは
彼の言葉に
迷うことなく従った
彼らは
謙信の采配に
絶対的な信頼を置いていた
彼らの間には
不必要な言葉はない
ただ
互いの信頼が
静かに
しかし強く
結ばれていた
その頃
武田本陣では
武田信玄が
静かに座していた
彼の前には
蝋燭の炎が
かすかに揺れている
信玄の表情には
一切の感情が読み取れない
しかし
その瞳の奥には
深い洞察力が宿っていた
信玄は
謙信の動向を
これまで注意深く観察してきた
謙信が記憶を失っていること
そして
その内側に
不可思議な力を秘めていることを
信玄は
既に察知していた
彼は
謙信が
単なる人間ではない
何か
人智を超えた存在であると
直感していた
信玄の冷徹な合理主義は
非合理なものを排除する
しかし
謙信の存在は
その合理性を揺るがすものだった
信玄は
自身の過去を
思い起こしていた
感情も、情も、人としての弱さも、全てを排除し、彼は「甲斐の虎」となった。
彼の瞳は
冷たい
しかしその奥に
一瞬だけ
“かつて失った何か”が揺れたように見えた
それは
信玄が
人間性を犠牲にしてきた
証だった
「勝者こそが、民に安寧をもたらす。敗れた正義は、ただの幻想よ」
その信念こそが
彼が全てを捨てて手に入れた
冷徹な合理性だった
しかし
謙信の中に
信玄は
その合理性とは異なる
強大な輝きを
見出していた
それは
人の感情を抱きながらも
神の如き力を持つ
矛盾した存在
信玄の心に
わずかな
理解できない感情が
芽生え始めていた
川中島の霧の奥で、二つの影が、互いを探し求めるように進んでいた――
両軍が中央の八幡原(はちまんぱら)丘陵を挟んで布陣するも、一瞬の静寂が訪れた。
騎馬を進めた信玄と、同じく現れた謙信。
奇しくも霧が二人の間を割くように晴れ上がった。
**二人が霧の中に現れたとき、謙信の足元に白椿が一輪、ひっそりと咲いていた。戦場に咲くには、あまりにも純白だった。**
やがて
霧の中から
武田信玄の姿が
謙信の目の前に現れた
信玄は
馬上で
静かに謙信を見つめていた
彼の瞳は
謙信の奥底を見通すかのように
鋭い光を放っている
謙信もまた
信玄の姿を
じっと見つめ返した
二人の間に
言葉はない
しかし
互いの存在が
相手の魂に
深く響き渡るのを
感じていた
謙信の心には
信玄の存在が
まるで
鏡のように
映し出される
もし自分が
綾姫と出会わず
神のままであったなら
信玄と同じ道を
辿っていたのかもしれない
その可能性が
彼の胸を締め付ける
信玄が
静かに口を開いた
「謙信…
そなたは
面白い男よ
人は神にはなれぬ
だが
そなたは“ならない”ことを選んだ
故に
そなたは恐ろしい」
信玄の言葉は
謙信の心の奥底に
深く突き刺さった
それは
彼が記憶を失う前の
神であった頃の自分と
人として生きることを選んだ
現在の自分との
葛藤を
見透かされているかのようだった
謙信は
言葉を発することなく
ただ信玄を見つめ返した
彼の瞳には
信玄には理解できない
深い感情の渦が
宿っていた
信玄の瞳には
かすかな驚きが浮かんだ
謙信の中に
彼が予期しなかった
人ならざる輝きを
見出したのだ
それは
彼自身が
かつて捨て去った
人の感情と
どこか似たような
純粋さだった
信玄は
謙信の瞳の奥に
深い慈愛の光を見出した
それは
彼自身が
かつて否定した
人間的な感情の輝き
信玄は
かすかに眉をひそめた
謙信の存在は
彼の合理主義を
揺るがすものだった
しかし
同時に
彼に
新たな興味を抱かせた
この男は
果たして
どこまで
「義」を貫けるのか
そして
その「義」が
この乱世に
何をもたらすのか
信玄は
それを
見極めようとしていた
「……もしそなたが、“理ではなく情”で勝るというのなら…私は、その結末を、見届けるべきなのかもしれぬ。」
信玄の言葉はそこで途切れた
謙信は
信玄の言葉を受け止め
自らの「義」の道を
改めて確信した
彼の心は叫んだ
「俺は神ではない。だが、神に近づいた人間が、何を選ぶか──それが“義”だと信じている。」
彼は
信玄とは異なる道を歩む
しかし
その道が
決して間違いではないと
信じる
彼の心には
綾姫の願いが
強く宿っていた
綾姫の詩が
彼の心に響く
「安らかに 民の寝息が 降る世こそ 私が見たき 春の夢なれ」
この願いこそが
彼の「義」の根源なのだ
それは
綾姫の命と引き換えに
彼が得た
人としての尊さだった
**【静の独白】**
*霧の向こう、二人の影が見える。
謙信公は、あの方と何を語り合っておられるのだろう。
その背に宿る影のぬくもりを、私は知っている──。
綾姫の祈りは、いま確かにここに在る。
どうか、この戦が、公の魂を、姫の願いを、蝕まぬように。
私は、ただ祈るしかない。*
二人の間に
川中島の霧が
静かに流れていく
龍と虎
二つの魂が
この宿命の地で
交差した
互いの存在が
相手をより強くしていく
彼らは
まるで光と影のように
互いを引きつけ
反発しながら
第五次決戦へと向かう
その戦いは
ただの領土争いではなく
互いの「生き様」と「信念」をかけた
魂のぶつかり合いだった
霧が少しずつ晴れ始め
太陽の光が
かすかに平野を照らし始めた
その光の中に
二つの影が
静かに立ち尽くしている
彼らの戦いは
まだ始まったばかりだ
そして
その戦いは
日本の歴史を
大きく変えることになるだろう
川中島の風が
彼らの頬を撫でる
その風は
まるで
運命を告げる声のように
静かに
しかし
確実に
響き渡っていた
龍は空を見、虎は地を這う
されど霧の中で交わるとき
運命の火は 静かに灯る
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