第17話 川中島前夜、月光の契り

宿命の地で

彼は自らの“影”と向き合い

決戦の夜を迎える。


武田信玄との対峙は

いよいよ最終局面を迎えようとしていた

越後と信濃の国境に位置する

川中島

この地こそが

「龍」と「虎」

二つの大軍が激突する

運命の舞台となる

夏は過ぎ

秋の気配が深まり

川中島の平野には

冷たい風が吹き荒れていた

木々の葉は色づき始め

戦場の空気に

どこか物悲しい色彩を添えている

広大な平野には

数万の兵がひしめき合い

それぞれの陣から

かすかなざわめきが聞こえてくる

鉄の匂い

土の匂い

そして

兵たちの汗の匂いが

入り混じり

戦場の独特な空気を生み出していた

夜の闇が

全てを覆い尽くし

恐怖と期待が

兵たちの心を

支配している


謙信は

川中島に本陣を構えた

彼の指揮の下

上杉軍は

着々と布陣を完了させていく

兵たちの顔には

疲労の色が濃い

しかし

その瞳には

決戦を前にした

静かな覚悟が宿っていた

彼らは

謙信の「義」を信じ

その勝利を信じていた

謙信は

本陣の天幕の中で

静かに地図を広げていた

兼続が

彼の傍らに侍り

最終的な報告を行う

「謙信公…

武田軍の布陣は

我らの予測通りにございます

しかし

信玄のこと

何らかの奇策を

企てているやもしれませぬ」

兼続の声には

かすかな緊張が滲んでいた

謙信は

その言葉に

静かに頷いた

彼の瞳は

地図の上の

川中島の地形を

じっと見つめている

そこには

かつて多くの命が失われた

血塗られた歴史が

刻まれている


静は

謙信の寝所で

夜伽の準備をしていた

彼女の心には

言い知れぬ不安が

渦巻いていた

明日

この地で

どれほどの血が流されるのか

そして

謙信は

無事でいられるのか

彼女の脳裏には

綾姫の最期の言葉が

何度も蘇る

姫が命を賭して守ろうとしたものが

再び

危機に瀕している

静は

謙信の顔を見た

彼の顔には

深い疲労と

そして

決戦を前にした

重い覚悟が刻まれている

しかし

その瞳の奥には

彼女には理解できない

深い光が宿っていた

それは

まるで

神の光であるかのように

彼女は

そっと謙信の天幕の入り口に

小さな白椿の花を置いていった

それは

姫の祈りとなるようにと

「私は、姫様の代わりにはなれない…でも、謙信公をひとりにさせはしない」

静は

心の中で

静かに誓った


夜が更け

謙信は一人

天幕の外に出て

夜空を見上げた

空には

満月が輝き

川中島の平野を

白く照らしている

月光が

彼の顔を照らし

その表情を

静かに浮かび上がらせる

彼の心は

静寂に包まれていた

しかし

その静寂の中に

遠い記憶が

微かに響き始めた

それは

綾姫との契りの記憶


彼の脳裏に

綾姫との契約の夢が

鮮明に蘇った

夢の中の彼は

見慣れない

しかしひどく懐かしい庭に立っていた

そこは

白い雪に覆われ

純白の白椿が

満開に咲き誇っている

その白椿の木の根元に

綾姫が立っていた

彼女は

透き通るような白無垢を纏い

月光を浴びて輝いている

その顔は

ひどく穏やかで

しかし

どこか哀しみを宿していた

謙信は

綾姫に向かって手を伸ばした

「姫…」

綾姫は何も語らない

ただ静かに

彼に微笑みかけた

その微笑みは

彼を咎めるものではなく

むしろ

彼の苦悩を

慈しむような

温かい光を宿していた

彼女は

そっと彼の手を取り

その指先が

彼の頬に触れる

その感触は

冷たくもあり

温かくもあり

彼の心臓を激しく高鳴らせた

**「……綾丸」**

**その一語に、すべての未練と願いが凝縮されていた。**

謙信の心の中で

その名が

強く響く

言葉はなくても

綾姫の掌から

彼の心に

深い愛情と

そして

すべてを許すような

慈愛が流れ込んでくる

謙信は

綾姫を

強く抱きしめようと腕を伸ばしたが

しかし

彼女の身体は

まるで幻のように

彼の腕をすり抜け

その姿が

月光の中に

溶けていく

「待ってくれ、姫…!」

彼の叫びは

虚しく響く

残されたのは

白椿の清らかな香りだけ

神性を失った今

人間としてこの戦いに臨む意味

そして

綾姫の犠牲を無駄にしないという決意を

彼は改めて確信した

夢の中で

綾姫が差し出した白椿を受け取る幻覚

その白椿は

彼の心を

温かく包み込み

彼に

新たな力を与えた


「姫…

そなたの命は…

我がこの身に

確かに宿っている…」

謙信の唇から

かすかにその言葉が漏れた

その言葉は

月光の中に

吸い込まれていく

彼は

綾姫の願いを胸に

この戦いを

戦い抜くことを誓った

そして

この戦いが

姫の願いを

真に叶える道であると

信じた

川中島の平野には

冷たい夜風が吹き荒れるが

謙信の心には

熱い決意が

静かに燃え上がっていた


直江兼続は

謙信の天幕の傍らで

静かに立っていた

彼には

謙信の天幕から

かすかに聞こえる

呻き声や

時折漏れる「姫」という

響きが聞こえていた

兼続は

謙信が

何者なのか

その真実に

近づいていることを感じていた

彼が静から聞いた

綾姫の物語が

謙信の言動と

重なり合う

兼続は

謙信が

神の化身でありながら

人として苦悩し

「義」を貫こうとする姿に

深い感銘を受けていた

彼には

謙信の孤独が

痛いほど分かった

しかし

彼にできることは

謙信を支えることだけだ

兼続は

静かに天幕を見つめ

心の中で誓った

「謙信公…

私は

いかなる時も

公の傍らに仕え

その御心を

支え続けることを誓います」

「もしこの戦で、謙信公に何かあらば――

その志を、我が身にて継ぐ所存」

兼続の声には

未来への強い決意が込められていた


その時

遠くの武田陣から

かすかに軍鼓の音が聞こえてきた

それは

戦の始まりを告げるかのように

静かに

しかし

確実に

響き渡った

謙信は

その音に

静かに耳を傾けた

彼の瞳には

決戦を前にした

静かな覚悟が宿っていた

夜は

まだ明けそうになかった

しかし

彼の心には

すでに

新たな夜明けが

訪れていた

明日

この地で

「龍」と「虎」が激突する

その戦いが

歴史に

どのような痕跡を残すのか

彼は

ただ

「義」を信じ

戦うことを誓った

月光が

川中島の平野を

白く照らし

まるで

これから起こるであろう

激しい戦を

見守っているかのようだった

その光は

謙信の顔を照らし

彼の瞳の奥に

深い決意と

そして

遠い郷愁のような光を

浮かび上がらせていた

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