天神エマは独り占めしたい

火之元 ノヒト

第一章 天神エマは独り占めしたい

序節 〜First Bite〜

​「また、やったな」


 三輪 辰弥みわ たつやは、小さく息を吐いた。

 まくり上げたシャツから覗く左腕。その赤く腫れた肌には、真新しい歯形がくっきりと刻まれている。白く濁った点々の痕は、まるで秘密の紋章のようだ。ずきずきと熱を持った痛みが広がるが、不思議と不快ではない。むしろ、この痛みがここにあることに、ある種の安堵すら覚えていた。


 彼の隣には、天神あまがみ エマ。

 174センチの長身に、流れるような黒髪。どこか涼しげな目元を持つ彼女は、学校中の誰もが振り返る「高嶺の花」であり、完璧な優等生。男子は畏れ多くて近寄れず、女子はただ憧れの眼差しを向ける。だが、その完璧な仮面の下に、決して人には見せない衝動が渦巻いていることを知る者はいない。世界でただ一人、この腕を差し出す辰弥を除いては。


 事の発端は数分前、放課後の人気のない昇降口でのことだ。

 辰弥がクラスの女子と二言三言、言葉を交わした。たったそれだけのこと。


 他愛ない会話を終えてエマの方へ向き直った瞬間、彼女の瞳が危険な色を帯びて細められた。言い訳をする間もなかった。無言のまま伸びてきた手が辰弥の腕を拘束し、逃がさないと言わんばかりに強く掴む。白く細い指が肌に食い込む。そして彼女は、獲物に食らいつく獣のように、迷いなくその顔を腕に埋めた。


「ん……」


 小さく呻く辰弥の腕に、エマの歯がゆっくりと沈み込んでいく。


 確かに痛みはある。けれど、それは不思議と甘さを伴っていた。柔らかな唇、皮膚を滑る歯の感触、腕に触れる髪のくすぐったさ、そして肌を撫でる熱を帯びた吐息。それら全てが混じり合い、痛覚を麻痺させるように辰弥の理性を溶かしていく。


 エマは噛む。

 辰弥の瞳が自分以外の誰かを映した時。あるいは、愛おしさが許容量を超えて溢れ出した瞬間に。彼女の『愛情表現』は、常に痛みを伴うものだ。


 最初は困惑した。痛いのは嫌だし、家族や友人に怪しまれないよう言い訳を考えるのも億劫だった。

 だが、いつからだろうか。この痛みが、自分を「独り占めしたい」という彼女からの強烈なメッセージであり、愛の深さの『証』だと感じるようになったのは。エマが自分にだけ見せるこの衝動的な姿に、抗いがたい魅力を覚えるようになったのは。


 ふ、と圧力が消え、エマが顔を上げた。

 静まり返った湖面のような瞳。だがその奥には、暗い情熱の火が揺らめいている。口元の唾液をあどけない舌で舐めとるその仕草は、支配者の余裕そのものだった。


「辰弥」


 名を呼ばれただけ。なのに、その響きは甘い毒のように鼓膜を震わせる。

 酷い独占欲だ、と辰弥は思う。けれど、その痛みさえも愛おしい。


 これは、甘く、ほろ痛い物語。


 暴走する彼女の愛と、彼の受容が織り成す、誰にも理解されない二人だけの愛の形。

 今日もまた、辰弥の体には天神エマの甘い痕が刻まれていく。

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