四 その名は残月

 首筋に夜叉の歯が刺さる。

 針を刺されているような感覚はあるのに、不思議と痛みはなかった。

 それよりも、やわらかい、と感じた。唇とはこれほどにもやわらかく、心地よいのか。このまま身を任せてしまいそうになる。

 微かにツンとしたにおいが鼻先を掠めた。

 知っているにおいだ。なんのにおいだっただろうか。微睡んでいる時のように考えがまとまらない。頭が霞に包まれているようだ。そんな霞の中に一点の朱が浮かんだ。

 瞬時に頭の中の霞が晴れた。

 ――血だ。血のにおいだ。

「いやっ!」

 そう気づくなり、体が動いた。身を捩って夜叉から逃れる。

 離れる際に鋭い痛みが走った。刺さっていた歯を横に引き抜いたため切り傷を負ったようだ。

 白無垢の襟が一筋の赤で染まる。

 贄は毎日生き血を与える――そういう盟約だ。けれども、対面した瞬間に襲われるとは思ってもみなかった。

 覚悟の上で来た。仇討ちできるのなら、相討ちでも構わないと思っている。だから恐れはなかった。

 ただ腹が立った。不意を突かれたことも、心地よいと感じてしまった自分にも。

 傷口を押さえようとしたが、手首を掴まれ、動きを封じられた。

「放して!」

「そう暴れるな」

 宥めるように言われたところで従う気などない。しかし力の差は歴然で、またしても首筋に口をつけられた。が、今度は歯を立てることはなかった。代わりにぺろりと舐められた。

「ん……っ」

 くすぐったさに妙な声が漏れる。

 夜叉は傷口を丁寧に舐め、それから垂れた血を舐め上げた。

「や、やめっ……!」

 私の訴えを聞き入れたわけではないだろうが、やっと口と手を放してくれた。

「もう大丈夫だ。傷は閉じておいた」

 首筋に触れると、傷が消えていた。肌はつるりとしていて、痛みも失せている。

「どういうこと?」

「夜叉の体液には蘇生力があるからな。人の傷くらい舐めときゃ治る」

 舐められたことが気持ち悪く、白無垢の袖で首を拭った。

「おいおい、えらく嫌われたもんだな。傷つくなぁ」

 言葉の割には落ち込んだ様子もなく、呆れたように笑っている。

 それから急に真顔になって私の顔を覗き込んだ。

「悪かったな。痛かったろ?」

 残虐な夜叉のくせに、心から労わるような声色を使うものだから戸惑ってしまう。

「別にあれくらいどうってことないわ。怪我したのは自分のせいだし」

 悔しいけれど、自分の落ち度をなすりつけるつもりはない。

「もし知らなかったのなら、すまないことをした。あれも祝言のうちなのだ。血の契りを持って隠世に花嫁として迎えることができる」

「す、少し驚いただけよ」

「いや、俺が悪い。必要なこととはいえ、おまえがあまりにもいい香りがするから、がっつきすぎた」

「香り?」

「おまえからは梔子くちなしの花のような香りがする。甘く、それでいて涼やかな香りだ」

 着物や髪を嗅いでみるが、自分ではなんの匂いも感じられない。

「とりあえず、おまえって呼ぶのはやめて」

「そうか。わかった。ではなんと呼べばいい? 名はなんという?」

「珠緒」

「珠緒か。俺は残月だ」

「残月――」

 仇の名は、残月。

 あの夜の夜叉に違いないのに、どうにも印象が違いすぎる。これでは人と変わらないではないか。

 しかし、見間違えるはずがない。

 私は襟合わせを整えるふりをして懐剣に触れ、自分に言い聞かせる。

 機を狙って必ず仇を討つ。それまでの辛抱よ。

「それで、祝言ってあとなにをするの? さっさと終わらせましょ。これで終わりってわけじゃないんでしょ? ここには誰もいないみたいだし」

 いつの間にか、岸に上がる際に葦舟を支えた数人の夜叉の姿はなくなっている。

「婚礼に儀式らしい儀式があるわけではない。人が隠世にいられるようにするための手続きみたいなものだけだ」

 そう言って、残月は落ちていた綿帽子を私の頭にぽんと乗せ、軽々と私を抱き上げた。

「な、なにするの!」

「なにって、花嫁を宴に連れて行くのだが?」

「自分で歩けるわよ!」

「そうはいかない。隠世のものを口にするまではこの地の者ではないからな。大切な花嫁の命を削られてはかなわん」

 私は残月に横抱きにされて水辺に背を向けると森に入っていった。



 森を抜けると、村が広がっていた。人の世――現世と変わらぬ風景だ。というよりも――

「これはいったい……」

「似ているだろう?」

 似ているなんてものではない。ほとんど紅里野村だ。家々や田畑の作物に多少の違いはあれど、夢の中に出てくる紅里野村といったくらいの差だ。

「現世と隠世は鏡写しみたいなものだ。ここは裏紅里野とでもいったとこか」

 畦道に青白い火が並んでいる。魔除けのために焚いていた帝都の篝火のような力強い炎ではなく、ふわふわと頼りなげな灯が連なっている。

「綺麗……」

 思わず呟くと、残月が誇らしそうに笑った。

「綺麗だろう。人魂だ」

「えっ? 人魂?」

 言われてみれば、青白い火は宙に浮いている。篝火のような脚つきの籠も灯明のような燭台もない。話には聞いたことがあるが、本物の人魂を見たのは初めてだ。人魂から目を背け、体を硬くした。

「怖いのか?」

「怖くなんかないわ!」

「無理するな。その割に震えているようだが?」

「気のせいよ!」

 こんなことで弱みを見せるわけにはいかない。顔を上げ、胸を張ってみたものの、所詮、残月の腕の中である。恥ずかしさと苛立ちで、耳が熱くなる。

 これだけ顔が近いのだから残月にもわかったはずだ。笑われるか馬鹿にされるかと思ったが、淡々としている。

「こいつらは特に悪さはしない。大きめの蛍だと思えばいい」

「蛍……そう思うと、やっぱり綺麗に見えてくるわ」

「そうだろう? ……ここには怖がるものはなにもない。夜叉に逆らえるものなどいないからな。珠緒も俺の妻だと知れ渡れば、ちょっかいを出してくる妖もいないはずだ。そのためには、お披露目しないとな」

 立ち止まったのは、大きな屋敷の前だった。紅里野村だと名主の家がある辺りだ。

「帰ったぞ!」

 残月が長屋門の前で声をかけると、門扉が軋みながら開いた。

 玄関の式台に腰掛けるように下された。残月は私の前に跪き、草履を脱がせてくれる。

 汚れた足袋が恥ずかしかった。女中や下男ではなくて、家の主人がやってくれるということにも驚きと恥ずかしさがある。

「さあ、参ろうか」

 残月は長い廊下を歩き始めた。抱き上げられるのはここまででいいらしい。私はすり足で残月の背中を追った。

 背を向けている今ならば討てるのでは?

 いや、それよりも、抱き上げられている時に首を切ってやればよかったのではないか。私を抱えていて両手は塞がっていたし、絶好の機会だったのに。

 動揺のあまり、機を逃してしまったことが苦々しい。

 今度こそ。

 懐剣をそっと抜いた瞬間、前を向いたまま声をかけられた。

「もうすぐだ」

 慌てて懐剣を懐に戻す。

 家の奥から賑やかな声が聞こえてくる。残月はその賑やかな部屋の前で足を止めた。

 残月が奥座敷の襖を開くと、今しがたの盛り上がりが嘘のように、しんと静まり返った。

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