夜叉の贄嫁〜紅緋の契り〜

霜月透子

 早朝の湖は霧が濃く、対岸どころかおのれの足元さえも白く覆われていて見ることは叶わない。

 打掛、掛下、帯から小物に至るまで白一色の白無垢姿のため、この身までもが風景に溶け込んでいくようだ。

「なあに。そんなに怯えんでも、しっかり者のお前のことだから上手くやれるさ」

 名主の声と同時にどん、と背を押された。よろめいた拍子に、ぱしゃりと音を立てて汀に足を踏み入れてしまう。水の冷たさに足が斬られたように傷んだ。

「姉さま……」

 背後から心細げな妹の声がした。

 私のたった一人の家族。早くに親を亡くし、母親代わりになって慈しんできた大切な妹。私に頼りきりだった妹。

 安心させようと、笑顔を作って振り向いて岸を仰ぐが、白く霞んだ霧の向こうに村人たちの気配がするだけで、妹の姿は認められない。今しがた背を押したはずの名主の影もない。

「大丈夫だよ」

 優しく響くあの人の声。だけど私にかけられた言葉でないことは声の響きでわかった。きっと妹の肩を抱き寄せて囁いたのだろう。

 そう。大丈夫。妹にはあの人がいる。

 これから始まる二人の暮らしを守るためにも私は行かなければならない。

 諦めて湖に向き直り、浅瀬を歩きながら手探りで葦舟を探した。かさりとした感触がして、ようやく葦舟の縁を掴んだ。

 綿帽子が視界をせばめていて、なかなか足が縁を越せない。

 それでもどうにか葦舟に乗り込むと、バシャバシャと水を踏む音がして、霧の中から何本もの男の手がヌッと現れた。

「せぇの!」

 掛け声とともに葦舟が押し出された。櫂もないのに葦舟は滑るように湖を渡る。

「よぉし。これで安心だ」

「帰って宴だ」

「いやあ、よかったよかった」

 明るいざわめきと笑い声が遠ざかっていく。

 そう、これでよかったのだ。私ひとりが身を捧げることでみんなが救われるのだから。


 葦舟はひとりでに霧の中を進む。

 やがてうっすらと対岸が姿を現した。鬱蒼とした山の木々は、湖上にまで枝葉を伸ばしている。その一角に張られている注連縄も見えてきた。

 ぎぎぎぎぎ……と歯軋りを思わせる不快な音がする。見れば一尺ほどもある羽の生えた百足むかでのようなものが舟縁ふなべりにとまっていた。妖蟲ようむの一種だ。

 思わず、ひっ、と喉が鳴る。

 妖蟲は嘲笑うかのように顎肢を横に開くと、体節の数だけある羽を震わせて飛び立った。

 胸に手を当てて息を整えつつ、なんの気なしに視線を上げると、幾種もの妖蟲が飛び交っていた。

 村にも妖蟲が迷い込むことが増えた。噛まれれば死は免れない。結界が綻びかけているというのは本当らしい。

 葦舟がさらに山に近づくと、注連縄は洞穴の入口に張られているだとわかった。古いもののはずなのに光るような白さで、見た目では特に傷んでいる様子はない。見た目と結界の効力とは符合するとは限らないのかもしれない。

 切り立った山の斜面が視界いっぱいに広がる。浅瀬はなく、上陸できる浜はなさそうだ。

 そんな私の懸念をよそに、葦舟は注連縄を潜り抜け、一筋の光も差し込まない洞穴へと入っていった。

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