第5章「都市の中の都市」Part D:「俯瞰」の縁に立つ
戦いの名残はまだ空気に漂っていた。
焼けた金属の匂い、破損した床に散らばるドローンの破片、緊張の余韻が胸を圧迫する静寂。
だがその中心に立つハルの目は、かつてないほど澄んでいた。
「ここから先は、ちょっと特別よ」
ミラが言った。
照明の途切れた通路を進みながら、彼女はかつての都市管理者たちが使っていた“展望端末”の存在を口にする。
都市の中枢——管理層すらアクセスできない旧世代の端末。
それは、都市の構造を“上から”視るために設計されたものだったという。
「ただの監視用じゃない。もっと、根本的にね。まるでこの都市を『ひとつの生き物』と捉えていたような……そんな作り」
ヴィクトルがうなる。「都市を見下ろすって、そういうことか」
案内された空間は、他のどの区域とも違っていた。
床は半透明の強化グラスで構成され、足元の内部構造が透けて見えていた。無数の光ファイバーが網の目のように走り、たまに閃光を走らせていた。
壁面は光を内包したような素材で覆われており、表層をなぞるように粒子が流れている。その中心に、塔のように立ち上がるのが“展望端末”だった。
端末は、筒状のコアを中心に複数のリングが浮遊しており、それぞれが独立して回転している。リングの内面には複数のインターフェースが投影され、触れずとも操作が可能な仕様だった。まるで、思考に呼応するかのように映像が変化していく。
頭上には円形の天井があり、その全面にホログラムマップが展開されていた。都市全体が立体的に表現され、スキャンデータによって構造や流体の動き、各層のエネルギー分布までもがリアルタイムで映し出されていた。
足元から天井まで、この空間そのものが一つの巨大な観測装置だった。 高さのある円筒状の空間。中心に塔のような制御装置が立ち、半透明の床下にはかつての回路構造が透けて見えていた。
壁面全体が巨大なディスプレイとなっており、断続的に映し出されるのは、都市全体のマップ……ではなかった。
それは、都市の“呼吸”だった。
熱、電力、情報の流れ、生体反応、心拍、振動。
それらすべてが、複雑な波紋として都市の断層に浮かび上がっていた。
ハルは息をのむ。
まるで都市そのものが神経網のように、動き、揺らぎ、感情のようなものさえもっているかのように感じた。
「……これは、監視じゃない。観察だ」
誰かがつぶやいた。
ミラは言う。「レジスタンスの一部は、この端末を使って“判断”を下していた。何を守るべきか、何を見捨てるか。まるで、神の視点ね」
「でもその“視点”を持つには、相応の覚悟が要る」
ハルはディスプレイの波紋に手をかざす。
指先が波紋に触れたとき、いくつかの層が反応し、個人の行動ログ、思考傾向、社会的立場までもが網目のように浮かび上がった。
(これが、都市の下にいる人々の“記録”)
個ではなく、集合体。
判断される存在であり、同時に判断する可能性をもつ。
「見下ろす」という行為の重みが、ハルの背にのしかかる。
これはただの眺望ではない。選別の視点だ。
この装置を通じて人々の行動や感情の痕跡を読み取ることができるならば、それは“介入”と紙一重だ。
どの区域を守るか、どの集団を切り捨てるか。その判断を下す権限が与えられることの意味。
(……自分がこれを持っていいのか?)
もし、誰かを救うために別の誰かを見捨てなければならないとしたら?
もし、誰かの未来を選ぶために、その人の過去を全て解析してしまったら?
それはもう、自由意志とは呼べない。
(ここに立つ者は、誰かを助ける神になり得る。でも同時に、静かに殺す神にもなり得る)
冷たい汗が背中を伝う。
何が正しいのか。どこまでが許されるのか。
この視点は、力を持つことの本当の責任を突きつけてくる。
「お前はここから、何を見たい?」ヴィクトルが問う。
ハルは答えをすぐには出せなかった。
だが、確かに心の奥に火が灯った気がした。
——この都市のどこかに、まだ知らない“始まり”がある。
そしてそれは、ただ観察するだけでは辿り着けない。
「俺は……もう一度、歩くよ。今度は自分の意思で」
ミラとヴィクトルが微かにうなずく。
それは承認ではなく、仲間としての同意だった。
展望端末の光がまたたく中、ハルはひとつ息を吸った。
その胸に去来するものは、言葉にはならない感覚の連なりだった。
(見てしまった。知ってしまった。……じゃあ次は、どうする?)
自分の中で、何かが確かに変わっていた。
ただ力を持ったわけじゃない。
ただ前に進もうという気持ちだけでもない。
この都市を形作る無数の情報と声の中に、自分の居場所を見つけたいと願った。
誰かの記録を上から裁くのではなく、隣に並んで、歩きたいと願った。
(俺は、もう逃げない。知らないふりもしない。誰かのせいにも、しない)
それは幼い決意だったかもしれない。
でも、今の自分にできる最初の答えだった。
彼は静かに背を向ける。
都市の複雑さと、そこに息づく無数の営みを背負いながら、彼は階段を一段ずつ降りていった。
再び、“歩く者”として。
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