Mirage Code - HaL's Path -
とある鱗の旅人
第1章「目覚め」Part A:スラムでの日常
ミステキアのスラム――そこは、光と闇が紙一重で共存する場所だった。
頭上には、富裕層エリアへと続くエアウェイが何重にも張り巡らされ、そこを滑るエアカーの光が断続的に路地裏を照らす。しかし、その一瞬の輝きが去ると、またすぐに闇とスモッグが視界を覆う。赤茶けた壁、剥がれたホログラム広告、電力の足りない照明――すべてが"置き去り"を物語っていた。
スラムの空気は湿気と化学物質が入り混じり、肺の奥をじわじわと侵してくる。咳き込む子供の声が遠くから聞こえ、誰かがぶつぶつと祈るように呟いている。「今日が、昨日と同じ終わり方じゃありませんように」――そんな願いすらも、埃にまみれた空に溶けて消えた。
ハルは、今日も日の出を知らずに目を覚ました。ジャンクパーツで補修された配給用ベッドの上、薄汚れたシートを蹴って起き上がる。彼の隣には、夜中に拾ったジャンク品が積まれている。義体の指パーツ、焦げたAIユニット、壊れかけた通信端末。売れるかどうかは微妙だったが、運が良ければジャンク屋のケイが何かしら交換してくれるはずだった。
部屋の片隅には、かつて政府の医療プログラムで配布された簡易浄水装置が置かれていたが、数年前に故障し、今はただの金属の塊に成り果てている。ハルはそれを足蹴にして立ち上がり、金属のドアを開けて薄暗い廊下に出た。
「今日も一日、地獄の始まりだ」
誰に聞かせるでもない独り言をつぶやきながら、ハルは薄いシャツにフード付きのジャケットを羽織った。
路地に出ると、ネオンの残光と油の臭い、そして排気ガスの混ざった空気が肺を満たした。通りの向こうでは、露店が合成肉と発酵野菜を炒める香りを振りまいている。カウンターには、同じように身なりの悪い子どもや、義体の膝を軋ませながら座る老人がいた。
スラムの道は複雑に入り組み、意図的に作られたのかと思うほど迷路のようだ。路面はひび割れ、配管から漏れる蒸気がところどころで視界を遮る。高架の配線が垂れ下がり、スパークするたびに青い閃光が走る。
通りの奥、ジャンク屋「ケイ・トレード」のシャッターはまだ半開きだった。中には、人工眼を付けた女主人ケイが、半壊れのロボットと格闘している。ハルは慣れた手つきで店の横の箱にジャンクを放り込み、カウンターに身を乗り出した。
「ケイ、これ見てくれよ。夜に拾ったんだ。AIユニット、まだ脈あるかも」
ケイはちらりと見て、眉をひそめる。
「……これ、外装がフューリーのロゴ入りじゃない? どこで拾ったのさ」
「南区の焼けた工場の裏。運び屋が落としてったみたいでさ」
「……あんた、余計なもの拾ってくるなって言ってんのに」
ケイはAIユニットを回収しながらも、結局はいつも通り、栄養バーと数枚のクレジットチップを渡してきた。
礼もそこそこにハルが立ち去ろうとすると、突然、街の奥から爆音が響いた。
ドンッ……ドンッ……という連続する重低音。そして、地面を揺らすような衝撃。すぐさま警報がスラムの上空を走り、監視ドローンが空を横切っていく。
「またか……」
通りの人々が一斉に身を低くし、露店の屋台は素早く畳まれていく。ハルも壁際に身を隠し、目を細めた。その視線の先――スラムの南端に近いラインで、黒煙が立ち上っていた。
ピースキーパーズの装甲車が数台、急行していく。治安維持部隊と呼ばれる彼らは、都市の力の象徴だった。最新鋭の義体を装備した兵士とAI制御のドローンを従え、反抗や混乱の兆しがあれば即座に鎮圧に動く。貧困層からは「都市の番犬」とも「圧政の刃」ともささやかれ、恐れと憎悪の対象でもある。
ハルは思わず息を呑んだ。彼の中で、ある種の感覚が疼いた。あのラインにいた仲間――リュカたちは無事だろうか。
スラムでは、突然の"暴走"が時折発生する。AI制御のロボットが狂い、街を破壊する。原因は定かではないが、都市の誰もがそれに慣れてしまっていた。だが、今日の爆発は、それまでの暴走とはどこか違う“気配”があった。
――ただのエラーじゃない。
そう確信めいた直感が、ハルの背中を冷たく撫でた。
その夜、ハルは再び南区の現場に向かった。黒煙はすでに収まり、ピースキーパーズの姿もなかった。だが、焼け焦げた地面には、奇妙な円形の焦土が残されていた。まるで内部から爆ぜたように、何かが爆発した痕跡。
傍らの壁には、溶けたように曲がった機械肢。床には赤黒い液体が乾いてこびりついていた。火薬の臭いに混じって、鉄と焦げたプラスチックの刺激臭が鼻腔を刺す。
スラムの他の住人たちは、誰一人近づこうとしなかった。ここにいるというだけで、ピースキーパーズに「関連あり」と見なされる危険がある。
「……リュカ……?」
闇の中で声をかけても、返事はなかった。
その時、ハルの通信インプラントに微弱なノイズが走った。
視界の端がちらつく。色彩が歪む。風もないのに、周囲のゴミが小さく浮かんだ。
――その瞬間だった。
ハルの手のひらから、淡く、かすかに光が漏れ出した。
青白いグリッチのような波紋――まるで視界が乱れるかのような電子的な揺らぎが、彼の周囲に広がった。
そして、またすぐに収束した。
……何が起きたのか、ハルには分からなかった。
けれど彼は、それが自分の中から出たものであることだけは、直感的に理解していた。
都市のどこかで、またひとつ、警報が鳴り始めた。
そして、その音はスラムの奥へ奥へと広がっていく。まるで、彼という存在そのものが、都市という巨大な機械に小さな異物として認識されたかのように。
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