第四巻「メネラオスとヘレンの漂流」


 メネラオスはトロイの灰を背に、船を漕ぎ出した。黒い帆が海風をはらみ、スパルタへの帰郷を願った。甲板には戦利品が積まれた。トロイの金杯が陽光に輝き、緋と紫の織物が波に揺れた。だが、船は沈黙に包まれた。仲間たちは櫂を握り、目を伏せた。トロイの十年は彼らの心を砕いた。アキレウスの怒りが戦場を燃やし、ヘクトルの槍が友を刺した。血と炎の記憶が彼らを苛んだ。メネラオスの心にはヘレンがいた。彼女の美は戦争を呼んだ。だが、彼の愛は揺らがなかった。木馬の夜、トロイの炎が空を赤く染めた。ヘレンは彼の手を握り、涙を流した。メネラオスは呟いた。「ヘレンよ、汝は私の光だ。スパルタで共に生きる」


 船尾にヘレンが立った。金髪が風に舞い、瞳はエーゲ海の深さを映した。彼女の美は神々の業だった。アフロディーテの贈り物、呪い。トロイでパリスに抱かれた記憶が彼女を刺した。『イリアス』の城壁から、彼女は戦場を見た。メネラオスの剣が血に染まり、パリスの弓が彼女を求めた。彼女の美は血を呼んだ。スパルタの宮殿、娘ヘルミオネの笑顔が脳裏に浮かんだ。彼女は裏切った。夫を、民を、子を。ヘルミオネの小さな手が彼女の衣を握った。スパルタの庭、オリーブの木陰。彼女は呟いた。「私の罪は消えぬ。スパルタで贖うのだ。ヘルミオネに母として帰る」 彼女の声は波に消えた。仲間たちの目は彼女を責めた。


 テュデウスが呟いた。「彼女は呪いだ。我々の血を流した」 テュデウスはトロイで息子を失い、妻アムピレアがスパルタで祈る。息子の叫びが彼を焼いた。ピュラエウスが頷いた。「スパルタに何が待つ。クリュセイスだけだ」 彼の恋人クリュセイスは彼を待つが、ヘレンへの不信が強かった。エウメロスが呟いた。「私の家族は死に、彼女が原因だ」 エウメロスは妻と子を戦火で失い、トロイの炎が彼の夢を奪った。ヘレンは彼らの視線を感じ、胸を押さえた。彼女はアフロディーテを呪った。「汝の贈り物は血を呼んだ。なぜ私を選んだ」 彼女の心は揺れた。民は彼女を許すか。ヘルミオネは母を愛するか。


 メネラオスは舳先に立ち、波を睨んだ。鎧は傷だらけ、髪は灰と塩で白んだ。瞳には決意と疲労が宿った。彼はトロイを思い出した。パリスの笑顔がヘレンを奪い、ヘクトルの死が戦場を静めた。アガメムノンの傲慢が民を苦しめた。第一巻の夜、カッサンドラの叫びが響いた。「血は血を呼ぶ」 第二巻のアガメムノンは嵐に消えた。第三巻のオデュッセウスはポセイドンの怒りに翻弄された。メネラオスは呟いた。「我が兄よ、汝の道は如何に。オデュッセウスよ、汝の知恵は生きるか」


 彼は仲間たちに声を上げた。「諸君、恐れるな。スパルタの岸は近い。我らは帰還するのだ」 彼の声は力強かった。だが、波は船を叩き、帆が軋んだ。テュデウスが叫んだ。「王よ、ポセイドンの怒りが海を震わす。ヘレンは呪いだ」 ピュラエウスが呟いた。「我々の血はトロイで流れた。スパルタで何が待つ」 エウメロスが呟いた。「私の希望はスパルタだ。だが、彼女は奪う」 メネラオスは舵を握り、答えた。「諸君、落ち着け。我々にはアテナの加護がある。ヘレンは我々の女王だ。スパルタは我々の家だ」


 ヘレンはメネラオスに近づき、手を握った。「メネラオスよ、許してくれ。私の罪が汝らを苦しめる」 彼女の瞳は涙で濡れ、声は震えた。メネラオスは彼女を抱き、言った。「ヘレンよ、汝は私の妻だ。共にスパルタへ帰る」 彼女は頷いたが、心は重かった。トロイの炎が彼女を追い、ヘルミオネの涙が彼女を刺した。彼女はアテナに祈った。「女神よ、私に力を。贖罪の道を」



 ポセイドンの怒りは容赦なかった。第三巻のオデュッセウスを襲った嵐が、ここにも迫った。波は船を飲み込むように高く上がり、星が黒雲に隠れた。船は揺れ、戦利品が甲板を滑った。金杯が海に落ち、織物が波に呑まれた。仲間たちは櫂を握り、必死に漕いだ。エウメロスが叫んだ。「王よ、船が持たぬ。神に供物を捧げよう」 メネラオスは頷いた。「諸君、準備せよ。ゼウスに羊を捧げる」 彼らは羊を屠り、血を海に流した。煙が空に昇り、祈りが響いた。だが、波は静まらなかった。雷が鳴り、帆が裂けた。仲間の一人、アルコスが波に呑まれた。彼の叫びが風に消えた。


 嵐は十二日続いた。船は砕け、仲間たちの半数が海に沈んだ。メネラオスは壊れた船板にしがみつき、ヘレンを守った。波は彼らを揺らし、塩水が目を刺した。彼はトロイを思い出した。ヘクトルの死、アキレウスの怒り。ヘレンの美が戦争を呼んだ。彼女はパリスの腕に抱かれ、スパルタを捨てた。メネラオスは彼女を責めなかった。愛は傷を癒すと信じた。彼は第三巻のオデュッセウスを思い出した。ポセイドンの怒りに翻弄された彼の船。メネラオスは呟いた。「オデュッセウスよ、汝の知恵は我々を救うか」


 朝が来ると、船板はエジプトの岸に流れ着いた。ナイルの水が金色に輝き、砂浜は陽光に焼けた。椰子の木が風に揺れ、葦が水面を揺らした。遠くに大理石の宮殿がそびえ、尖塔が朝霧に浮かんだ。没薬と乳香の匂いが漂い、異国の鳥が歌った。空気は熱く、湿気を帯びた。メネラオスは生き残った仲間を集めた。テュデウス、ピュラエウス、エウメロス、そして十二名。皆、疲弊し、目は虚ろだった。彼は命じた。「諸君、岸を探れ。食料と水を見つけるのだ。だが、油断するな。この地は知れぬ」 彼の声は落ち着いていたが、心には警戒が宿った。


 テュデウスが呟いた。「王よ、この地は異国の匂いがする。ポセイドンの罠か」 彼は息子の死を思い出した。トロイの炎、息子の叫び。妻アムピレアがスパルタで祈る。ピュラエウスが頷いた。「スパルタの風とは異なる。ヘレンはここでも騒動を呼ぶ」 彼の恋人クリュセイスは彼を待つが、ヘレンへの不信が強かった。エウメロスが呟いた。「私の家族は死に、この地も墓場か」 彼の声は震え、トロイの記憶が彼を刺した。メネラオスは仲間を見つめ、言った。「諸君、恐れるな。我々はスパルタへ帰る。ヘレンは我々の女王だ」


 ヘレンは砂浜に立ち、ナイルを見つめた。彼女はトロイを思い出した。パリスの愛は彼女を惑わした。アフロディーテの声が耳に響いた。「汝の美は全てを従える」 だが、美は血を呼んだ。トロイの民が叫び、城壁が崩れた。彼女はヘルミオネを思い出した。小さな手が彼女の衣を握った。スパルタの庭、オリーブの木陰。彼女は呟いた。「私の罪は消えぬ。スパルタで贖うのだ。ヘルミオネに母として帰る」 彼女の声は小さく、風に消えた。彼女は民の視線を想像した。スパルタの女たちが彼女を呪う。ヘルミオネが母を拒む。彼女は震え、アテナに祈った。「女神よ、私に力を。民を癒す道を」


殿


 仲間たちはナイルのほとりを進んだ。大理石の宮殿がそびえ、金と青の浮彫が陽光に輝いた。壁にはイシスの像、蓮の花、アヌビスの目が刻まれた。香炉から没薬と乳香の煙が漂い、柱の影が床に揺れた。エジプトの王、ポリュボテスが彼らを迎えた。黄金の冠を戴き、衣は紫と金の刺繍で輝いた。孔雀の扇を持った女官が彼を囲み、廷臣たちが敬礼した。彼は微笑み、言った。「旅人よ、ようこそ。ナイルの恵みが汝らを癒す。我が宮殿で休息せよ」 彼の声は温かく、目は好奇に輝いた。だが、その奥に欲望が潜んだ。メネラオスは答えた。「王よ、感謝する。我々はスパルタの民だ。帰郷の道を求める」 ポリュボテスは頷き、宴を用意した。


 宴の間は華やかだった。琥珀の杯に葡萄酒が注がれ、焼いた鴨、ナツメヤシ、蜂蜜のパン、蓮の種の菓子が並んだ。楽師が竪琴とシストルムを奏で、踊り子が蓮の花を手に舞った。女官たちは扇を振るい、乳香を焚いた。空気は熱く、香りに満ちた。廷臣たちはメネラオスに敬意を示したが、目はヘレンに注がれた。彼女が現れた瞬間、宮殿は静寂に包まれた。金髪は陽光を浴び、瞳はナイルの深さを映した。薄絹の衣はトロイの織物を思わせ、肌は大理石のように輝いた。彼女の美は神々の業だった。廷臣たちが囁いた。「彼女はイシスだ」「トロイを滅ぼした女神だ」「ハトホルの化身だ」


 ポリュボテスはヘレンを見つめ、杯を掲げた。「スパルタの女王よ、汝の美はナイルを凌ぐ。エジプトに留まり、我が宮殿を照らせ」 彼の声は甘く、欲望が滲んだ。廷臣たちが頷き、女官たちが囁いた。「彼女は神々の娘だ」「彼女は王の妃にふさわしい」 ヘレンは首を振った。「王よ、感謝する。だが、私の家はスパルタだ。メネラオスと共に帰る」 彼女の声は静かだったが、決意に満ちた。彼女の心はトロイを思い出した。パリスの目、トロイの廷臣たちの欲望。彼女は呟いた。「私の美は血を呼ぶ。アフロディーテよ、なぜ私を選んだ」


 ポリュボテスの弟、クリュシスが近づき、言った。「女王よ、ナイルの岸は汝を神と崇める。スパルタは遠い。エジプトで新たな王妃となれ」 彼の手がヘレンの腕に触れた。彼女は身を引いた。「退け。私の夫はメネラオスだ。スパルタの女王は私だ」 彼女の声は鋭く、宮殿に響いた。メネラオスは剣を握り、立ち上がった。「諸君、退け。ヘレンは我が妻だ。スパルタの女王だ」 彼の声は雷の如く、廷臣たちを震わせた。仲間たちは剣を抜き、テュデウスが叫んだ。「王よ、彼女はまた戦争を呼ぶ。トロイの再来だ」 彼は息子の死を思い出した。トロイの炎が彼を焼く。ピュラエウスが頷いた。「この地でも血が流れる。クリュセイスが待つのに」 エウメロスが呟いた。「彼女の美は呪いだ。我々の希望を奪う」


 廷臣たちはざわめき、クリュシスが笑った。「スパルタの王よ、汝の妻はエジプトの宝だ。ナイルの神々が彼女を求める」 彼の目は欲望に燃え、廷臣たちが叫んだ。「彼女を王に捧げよ」「スパルタは滅ぶ」 女官の一人、ネフェルが囁いた。「彼女はトロイを滅ぼした。エジプトも滅ぼす」 ネフェルの目は嫉妬に燃えた。彼女はポリュボテスの寵愛を求め、ヘレンを憎んだ。ヘレンは震えた。トロイの城壁が脳裏に浮かんだ。パリスの目、廷臣たちの欲望。彼女はヘルミオネを思い出した。娘の涙、母への不信。彼女は呟いた。「私の罪がこれだ。スパルタで贖わねば」


 メネラオスはヘレンを背に庇い、剣を構えた。「諸君、退け。彼女を侮辱する者は我が剣で裁く」 彼の目は炎の如く、宮殿を静めた。ポリュボテスは手を挙げ、騒動を静めた。「スパルタの王よ、許せ。汝の妻は安全だ。我が弟を咎める。休息の後、帰郷の道を教える」 彼の声は穏やかだったが、目はヘレンに留まった。ヘレンはメネラオスに近づき、囁いた。「メネラオスよ、許してくれ。私の美がこれを呼んだ」 メネラオスは彼女の手を握り、答えた。「ヘレンよ、汝は私の妻だ。誰も奪えぬ。共にスパルタへ帰る」


 ヘレンの心は重かった。宴の間、廷臣たちの目は彼女を離さなかった。女官たちが囁いた。「彼女はトロイを滅ぼした」「彼女は呪いだ」「彼女は神々の娘だ」 ヘレンはスパルタを思い出した。民の冷たい目、ヘルミオネの涙。彼女は呟いた。「私はスパルタで贖う。民を癒す。ヘルミオネに母として帰る」 彼女の決意は固かったが、恐怖が心を刺した。美は呪いだった。トロイの炎、エジプトの欲望。彼女はアテナに祈った。「女神よ、私に力を。贖罪の道を」



 ポリュボテスはメネラオスに助言した。「海神プロテウスが道を知る。ナイルの岸に現れる。捕まえ、問うのだ」 メネラオスは頷き、仲間を連れて岸へ向かった。ナイルの水は静かで、葦が風に揺れた。朝霧が立ち込め、鷺が水面を滑った。魚が跳ね、水面に波紋が広がった。プロテウスは海から現れた。彼は獅子に変わり、咆哮した。蛇に変わり、牙を剥いた。水に溶け、波となった。炎となり、風となった。メネラオスは仲間と共に彼を捕まえた。テュデウスが叫んだ。「王よ、離すな。アムピレアが待つ」 彼は妻の祈りを思い、力を込めた。ピュラエウスが叫んだ。「クリュセイスが待つ。スパルタへ帰る」 エウメロスが呟いた。「私の希望はスパルタだ。家族の墓に祈る」


 メネラオスはプロテウスを押さえ、叫んだ。「海神よ、スパルタへの道を教えよ」 プロテウスは笑い、答えた。「スパルタの王よ、汝の心は強い。ポセイドンの怒りを乗り越えよ。北へ船を進め、ゼウスに祈れ。アテナが汝を守る。だが、ヘレンの美は試練を呼ぶ。彼女の心を信じよ」 彼の声は海に響き、霧が晴れた。メネラオスはプロテウスの言葉を刻んだ。彼はトロイを思い出した。ヘレンの裏切り、パリスの死。だが、彼女は今、彼のそばにいる。彼は呟いた。「ヘレンよ、汝は私の光だ。スパルタで共に生きる」


 仲間たちは船を修復し、櫂を握った。テュデウスが言った。「王よ、プロテウスの言葉は本当か。アムピレアが待つ」 ピュラエウスが頷いた。「クリュセイスが待つ。スパルタへ帰る」 エウメロスが呟いた。「私の希望はスパルタだ。家族の墓に祈る」 ヘレンは船首に立ち、メネラオスを支えた。彼女は呟いた。「スパルタで私は贖う。民の信頼を取り戻す。ヘルミオネに母として帰る」 彼女の瞳は決意に燃えた。メネラオスは彼女の手を握り、言った。「ヘレンよ、共に帰ろう。スパルタは我々の家だ」


 船はナイルを離れ、海へ漕ぎ出した。だが、ポセイドンの波は荒々しかった。雷が鳴り、嵐が迫った。メネラオスはアテナに祈った。「女神よ、我々を導いてくれ」 空に梟の影が現れ、光が差した。希望が灯ったが、試練は続いた。



 オリュンポスの雲間で、ゼウスは神々を招集した。雷鳴が響き、彼は言った。「メネラオスの旅は試練に満ちる。運命の天秤は揺れる」 ポセイドンは怒りを露わにした。「彼はトロイの戦士だ。ヘレンの美は私の海を汚した」 アテナは反論した。「ポセイドンよ、メネラオスの愛は純粋だ。彼を導く」 ヘラは微笑み、言った。「ヘレンの贖罪は彼を救う。スパルタは待つ」 アフロディーテは黙し、ヘレンの美を思い出した。彼女はパリスの愛を悼み、涙を流した。彼女は呟いた。「私の贈り物は彼女を苦しめた。だが、彼女の心は強い」


 ゼウスは天秤を手に、告げた。「メネラオスの試練は続く。だが、彼の愛は運命を切り開く。神と人の共作だ」 神々の対立は地上に嵐を降らせた。メネラオスの船は揺れ、試練の海を進んだ。スパルタへの道は遠く、物語は新たな章へ進んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る