第5話 ReMediの影、True Pulseの胎動
部屋の明かりをつける前、氷室はいつも一度、深く息を吐く癖がある。
生活感のないリビング。黒とグレーを基調としたシンプルな家具。整いすぎた空間に、人の気配は薄い。
バッグをソファに投げ、台所へ向かう。
冷蔵庫を開けると、炭酸水とミネラルウォーター、賞味期限切れのドレッシングが一本。
「……ひどいわね」
小さく苦笑する。
自分の生活の殺伐ぶりに呆れつつ、どこか諦めた落ち着きがあった。
パキッとキャップをひねる音が、静けさを破る。
グラスに注ぐのも面倒で、ペットボトルのまま口をつける。冷たさが喉を駆け下り、肩の力がわずかに抜けた。
壁際の棚に置かれたフォトフレームに目をやる。
若い女性の笑顔。
胸元には、氷室と同じペンダントが揺れている。
──姉は、僻地の小さな診療所で命を落とした。
誤診を悔やみ、ひとりで抱え込み、消えた。
あの技術があれば、救えたかもしれない。
氷室は胸元のペンダントにそっと手を添える。
チェーンを外し、フォトフレームの前に置く。
「帰ってきたわよ……」
返事はない。
それでも、言わずにはいられなかった。
加賀見は、私の夢を潰した男。
彼が奪ったのは、会社だけじゃない。
あの日の姉の笑顔を、取り戻すために。
──今度こそ。
目を閉じ、静かに息を吐く。
久遠の真っ直ぐな目が、脳裏に浮かぶ。
彼の目は、どこか姉に似ていた。
***
翌朝、シェアオフィスの一角。
白を基調としたスペースに、端末とホワイトボードが並ぶ。
椅子に浅く腰掛けた久遠の前で、セリスと氷室が並んで立つ。
セリスがタブレットを指ではじき、画面を傾ける。
「メディセンス社の加賀見は、ReMediの新バージョンで、コヒーレンス・スキャンを年内に実装すると発表」
画面には、加賀見のインタビュー。
「『ReMediは私のビジョン。久遠の才能は過去のもの』と加賀見部長」
頭に血が上った。
視界の端が赤く滲んで、気づけば拳を握りしめていた。
「人のアイデアを盗んで、よく言う……」
セリスが冷笑する。
「加賀見は君の才能を恐れてる。社内のプレッシャーに追い詰められ、強がってるだけだ」
氷室が続ける。
「彼の野心は脆い。ReMediの成功はメディセンス社の命運を握る。失敗すれば、彼の出世は終わりよ」
俺は目を伏せた。内心で加賀見の「嫉妬の光」を思い出す。
あの研究室で、俺のアイデアを賞賛しながら、苛立っていた瞳。
あれにもっと早く気が付いていたら。
「だからこそ、TruePulseを先に世に出す。──Speed winsだ」
「現段階で、リードタイムは三ヶ月。臨床実装は厳しいけど、やれないとは思わない。どう? 久遠」
俺は立ち上がって、ホワイトボードに波形を描いた。
「処理順を逆転し、データマッピングを変えた。これで特許を回避できる。だが、安定性はまだ課題だ。今は模擬データでうまくいっただけだ。次は、レトロデータと実際の臨床データで詰めていく必要がある」
氷室に言われて、ずっと取り組んできた。
セリスが頷き、氷室が微笑む。
「ベストは尽くす。それは約束する」
セリンと氷室が満足気にうなずく。
「……ただ、これは命の問題だ。スピードを優先すれば、必ずどこかで質が落ちる。それで誰かがまた犠牲になるなら──それは間違っている」
深く息を吸い、ふたりの目を正面から見返した。
「──品質は落とさない。それだけは譲れない」
セリンはもの言いたげに瞬きをし、氷室は目を細めた。
だが、何も言わなかった。
***
深夜のオフィス。
スタッフが消え、セリスも投資家との電話を終えて帰宅した。
氷室と俺だけが、会議室に残った。
「氷室、キャピタリストとしての仕事は? 今はそれを投げてまで、こっちに専念してるのか?」
俺が、思わず口にする。
「そうよ。でも──キャリアに影響はしないわ」
「加賀見を潰したいだけなら、他に方法はあるんじゃ? なぜ、俺の技術にこだわる?」
氷室がペンダントを触る。
その瞳に、一瞬、深い悲しみを見た気がした。
心臓がどくりと鳴る。
「そうね……でも、私はあなたの技術がいいと思ったの。理由は、そのうち話すわ」
氷室灯子は、ただの投資家じゃないのかもしれない。
彼女の強さと傷が、俺の心を強く惹きつけた。
(……って、まさか俺、惚れてるのか?)
(いやいや、今はそんな場合じゃない)
(如月のこと、コヒーレンス・スキャンのこと、加賀見のこと──考えることは山ほどある)
そんな俺の心を読んだのか、氷室がふっと笑う。
「久遠」
「な、何だよ?」
「ひどい髪ね。ボサボサじゃない。そろそろ切ったら?」
「はあ!? 急に何だよ!」
「ふふ、でもさ、この間のスーツ姿は、意外と似合ってたわよ」
氷室が軽く首を傾げ、いたずらっぽく笑う。
その笑顔に、少し鼓動が早まった。あのバーでの心地よさ、病室での温かな光が、ふと頭をよぎる。
この女、掴みどころがない……でも嫌いじゃない。
「投資家は髪のことまでが口出すのかよ」
氷室が小さく笑い、ペンダントを握る指が光を反射した。
「投資家としてじゃないわ。仲間として、ね。」
その一言に、胸が少しざわついた。
彼女の笑顔が、俺の心を温かくした。
***
翌朝、提携クリニックでの初テスト。
コヒーレンス・スキャンのプロトタイプを、過去の診療データで試す。
臨床記録に残された波形を再解析し、診断ミスが起きた症例を追いかける。
画面に、心拍と呼吸の波形が重なり、当時は見逃された微かなズレが赤く点滅した。
「心筋虚血の前兆を捉えた!」
俺が叫ぶと、セリスが頷き、氷室が微笑んだ。
「レトロデータとはいえ、良い結果ね」
スタッフから拍手が上がる。
だが、テスト終了後、ネットでニュースが流れた。
「メディセンス社、ReMediの新機能発表。『コヒーレンス技術を10月に実装』」
加賀見の笑顔が輝く。
「早いな……俺たちの動きを嗅ぎつけたか?」
「加賀見の焦りよ。あなたの才能が、彼を追い詰めてる。」
氷室がペンダントを握り、冷たく言う。
俺はPCの波形を見つめる。
まだ未完成だが、ハーモニーの兆しが、確かにそこにあった。
「……絶対に負けない」
氷室の瞳に、静かな炎が宿る。
「その言葉、忘れないでね」
俺は、大きく頷いた。
***
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